・・・ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。「何を見ているんだえ?」 恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・そういう消息を知っている僕は、君たちさえ笑止に思う以上、呆れ返らざるを得ないじゃないか?「若槻は僕にこういうんだ。何、あの女と別れるくらいは、別に何とも思ってはいません。が、わたしは出来る限り、あの女の教育に尽して来ました。どうか何事に・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・陳はさっきからたった一人、夜と共に強くなった松脂のにおいを嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透かして見た。それは彼の家の煉瓦塀が、何歩か先に黒々と、現われて来・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・十三日名古屋市の大火は焼死者十余名に及んだが、横関名古屋市長なども愛児を失おうとした一人である。令息武矩はいかなる家族の手落からか、猛火の中の二階に残され、すでに灰燼となろうとしたところを、一匹の黒犬のために啣え出された。市長は今後名古屋市・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・御前などが御聞きになりましたら、さぞ笑止な事と思召しましょうが、何分今は昔の御話で、その頃はかような悪戯を致しますものが、とかくどこにもあり勝ちでございました。「さてあくる日、第一にこの建札を見つけましたのは、毎朝興福寺の如来様を拝みに・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり路の小石を二つ三つ掴んで入口の硝子戸にたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは悠々としてまたそこを歩・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・それを十分に考えてみることなしに、みずから指導者、啓発者、煽動家、頭領をもって任ずる人々は多少笑止な立場に身を置かねばなるまい。第四階級は他階級からの憐憫、同情、好意を返却し始めた。かかる態度を拒否するのも促進するのも一に繋って第四階級自身・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・薄ぎたなくよごれた顔に充血させて、口を食いしばって、倚りかかるように前扉に凭たれている様子が彼には笑止に見えた。彼は始めのうちは軽い好奇心にそそられてそれを眺めていた。 扉の後には牛乳の瓶がしこたましまってあって、抜きさしのできる三段の・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・もしこの椅子のようなものの四方に、肘を懸ける所にも、背中で倚り掛かる所にも、脚の所にも白い革紐が垂れていなくって、金属で拵えた首を持たせる物がなくって、乳色の下鋪の上に固定してある硝子製の脚の尖がなかったなら、これも常の椅子のように見えて、・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 吃驚して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓へ照々と当る日が、片頬へかっと射したので、ぱちぱちと瞬いた。「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」 となおさら可笑がる。 謙造は一向真面目で、「何という人だ。名札・・・ 泉鏡花 「縁結び」
出典:青空文庫