・・・そして豊田正子の綴方が世に出されたときも、周囲のひとは彼女が文学的なものに全く遠いということを特に強調して述べていたことを自然のつながりで思い浮べた。 日本の文学はこの四五年来、社会事情の変転とともに大きい転換時代にめぐり会い、文芸思潮・・・ 宮本百合子 「若い婦人の著書二つ」
・・・ 藤村や晶子が盛にロマンティックな詩で愛の美しさ、愛し合う男女の結合の美しさ、価値をうたった時代、現実の社会生活の中では決してそのような誰にものぞましい結合がざらにあった訳ではなかった。進歩的な若い文学者などが、新しい生活への翹望とその・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
・・・柄本又七郎へは米田監物が承って組頭谷内蔵之允を使者にやって、賞詞があった。親戚朋友がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・予はただ笑止に思うに過ぎぬ。予はただここに一いっしゅの香を拈ってこれを弔するに過ぎぬ。予にしてもし彼の偽の幸福のために、別方面の種々の事業の阻礙をさえ忘るるものであったなら、予は我分身と与に情死したであろう。そうして今の読者に語るものは幽霊・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・柱なんぞは黒檀のように光っていた。硝子の器を載せた春慶塗の卓や、白いシイツを掩うた診察用の寝台が、この柱と異様なコントラストをなしていた。 この卓や寝台の置いてある診察室は、南向きの、一番広い間で、花房の父が大きい雛棚のような台を据えて・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・なぜと申しますに、源氏物語を翻訳するに適した人を、わたくし共の同世の人の間に求めますれば、与謝野晶子さんに増す人はあるまいと思いますからでございます。源氏物語が Congコンジェニアル な人の手で訳せられたのだと思いますからでございます。・・・ 森鴎外 「『新訳源氏物語』初版の序」
・・・借りてみるに南翠外史の作、涙香小史の翻訳などなり。 二十三日、家のあるじに伴われて、牛の牢という渓間にゆく。げに此流には魚栖まずというもことわりなり。水の触るる所、砂石皆赤く、苔などは少しも生ぜず。牛の牢という名は、めぐりの石壁削りたる・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・一頭曳の馬車は窓硝子ががちゃがちゃ鳴って、並んで据わっている人の話が聞えませんでしょう。それから一頭曳の馬車に十月に乗りますと、寒くて気持が悪いでしょう。二頭曳ですと、車輪だって窓硝子だって音なんぞはしません。車輪にはゴムが附いていて、窓枠・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・ 二人には二人の心が硝子の両面から覗き合っている顔のようにはっきりと感じられた。 三 今は、彼の妻は、ただ生死の間を転っている一疋の怪物だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽く彼の前から・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・東郷神社と小額のある祠の前の芝生へ横になった。中庭から見た水交社は七階の完備したホテルに見えた。二人の横たわっている前方の夕空にソビエットの大使館が高さを水交社と競っていた。東郷小祠の背後の方へ、折れ曲っている広い特別室に灯が入った。栖方は・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫