・・・画のためとなら小生はいつでも気が勇み立ちます、』といって彼はその蒼白い顔に得意の微笑を浮かべた。 彼は画板の袋から二、三枚の写生を取り出して見せたが、その進歩はすこぶる現われて、もはや素人の域を脱しているようである。『どうです散歩に・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 天津ノ城主工藤吉隆の招請に応じて、おもむく途中を、地頭東条景信が多年の宿怨をはらそうと、自ら衆をひきいて、安房の小松原にむかえ撃ったのであった。 弟子の鏡忍房は松の木を引っこ抜いて防戦したが討ち死にし、難を聞いて駆けつけた工藤吉隆・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・が、その笑声の終らぬ中に、客はフト気中りがして、鵞鳥が鋳損じられた場合を思った。デ、好い図ですネ、と既に言おうとしたのを呑んでしまった。 主人は、「気中りがしてもしなくても構いませんが、ただ心配なのは御前ですからな。せっかくご天覧い・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・またたまにはその娘に逢った時、太郎坊があなたにお眼にかかりたいと申しておりました、などと云って戯れたり、あの次郎坊が小生に対って、早く元のご主人様のお嬢様にお逢い申したいのですが、いつになれば朝夕お傍に居られるような運びになりましょうかなぞ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・イなるほどそうですネ、と云っていると、東坡巾の先生はてんぜんとして笑出して、君そんなに感服ばかりしていると、今に馬糞の道傍に盛上がっているのまで春の景色だなぞと褒めさせられるよ、と戯れたので一同哄然と笑声を挙げた。 東坡巾先生は道行振の・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・一しきりはずんで聞えた客の高い笑声も沈まってしまった。さかんな食慾を満たそうとする人達は、ほんとうにうまいものに有りついた最中らしい。話声一つ泄れて来なかった。静かだ。「どうぞ、御隠居さん、ゆっくり召上って下さいまし。今日はわたしにお給・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・時々高い笑声が起る。小猫は黒毛の、眼を光らせた奴で、いつの間にか二人の腰掛けている方へ来て鳴いた。やがて原の膝の上に登った。「好きな人は解るものと見えるね」と相川は笑いながら原が小猫の頭を撫でてやるのを眺めた。「それはそうと、原君、・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・話声もしない。笑声もしない。青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、黒い一団をなして、男等は並木の間を歩いている。一方には音もなくどこか不思議な底の方から出て来るような河がある。一方には果もない雪の原がある。男等の一人で、足の長い、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・その小成に安んずるをおそるるなり。今君は弱冠にして奇功多し。願わくは他日忸れて初心を忘るるなかれ。余初めて書を刊して、またいささか戒むるところあり。今や迂拙の文を録し、恬然として愧ずることなし。警戒近きにあり。請う君これを識れと。君笑って諾・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・次兄も、れいのけッという怪しい笑声を発した。末弟は、ぶうっとふくれて、「僕は、そのおじいさんは、きっと大数学者じゃないか、と思うのです。きっと、そうだ。偉い数学者なんだ。もちろん博士さ。世界的なんだ。いまは、数学が急激に、どんどん変って・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫