・・・一旦木村博士を賞揚するならば、木村博士の功績に応じて、他の学者もまた適当の名誉を荷うのが正当であるのに、他の学者は木村博士の表彰前と同じ暗黒な平面に取り残されて、ただ一の木村博士のみが、今日まで学者間に維持せられた比較的位地を飛び離れて、衆・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・人によると、生涯に一度も無我の境界に点頭し、恍惚の域に逍遥する事のないものがあります。俗にこれを物に役せられる男と云います。かような男が、何かの因縁で、急にこの還元的一致を得ると、非常な醜男子が絶世の美人に惚れられたように喜びます。「意・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・その辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、阿片の夢のように逍遥っていた。彼らの姿は、真に幻想的な詩題であった。だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。彼ら・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 労働者のいない船が、バルコンを散歩するブルジョアのように、油ぎった海の上を逍遥し始めた。 機関長が石炭を運び、それを燃やした。 船長が、自ら舵器を振り、自ら運転した。 にも拘らず、泰然として第三金時丸は動かなかった。彼女は・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・真実に脱俗して栄華の外に逍遥し、天下の高処におりて天下の俗を睥睨するが如き人物は、学者中、百に十を見ず、千万中に一、二を得るも難きことならん。いわんや日本国中栄誉の得べきものなければ、すなわち止まんといえども、等しく国民の得べきものにして、・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・官用にもせよ商用にもせよ、すべて戸外公共の事に忙しくして家内を顧みるに遑あらず。外には活溌にして内には懶惰、台所の有様を知らず、玄関の事情を知らず、子供の何を喰らい何を着るを知らず、家族召使の何を楽しみ何を苦しむを知らず。早朝に家を出て夜に・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・彼が『古今』、『新古今』を学ばずして『万葉』を学びたる卓見はわが第一に賞揚せんとするところなり。彼が『万葉』を学んで比較的善くこれを模し得たる伎倆はわが第二に賞揚せんとするところなり。そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・芭蕉がこの特異のところを賞揚せずして、かえってこれを排斥せんとしたるを見れば、彼はその複雑的美を解せざりし者に似たり。 芭蕉は一定の真理を言わずして時に随い人により思い思いの教訓をなすを常とす。その洒堂を誨えたるもこれらの佳作を斥けたる・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ だけれども、そうして優生結婚、健全結婚が慫慂されるとき、今日の結婚論は、人間と人間との間にある愛として、結婚に入る門口として、互の理解の大切さを前提しないのはどういうわけなのだろう。 優良馬の媾配であるならば血統の記録を互に示し合・・・ 宮本百合子 「結婚論の性格」
・・・文芸理論に於てはヨーロッパの評論、文学評価を学んで封建的善玉悪玉の観念を排し、社会と人間との現実を描くことを慫慂した逍遙が、「当世書生気質」の描法にはおのずから自身が明治社会成生の過程に生きた青年時代の社会関係の角度を反映して、多分に弁口達・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
出典:青空文庫