・・・パウロの書翰集。テモテ前書の第二章。このラプンツェル物語の結びの言葉として、おあつらいむきであると長兄は、ひそかに首肯き、大いにもったい振って書き写した。 ――この故に、われは望む。男は怒らず争わず、いずれの処にても潔き手をあげて祈らん・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・そうしてその出来事を想いだす時にはその暑寒の感覚はもう単なる概念的の抜殻になってしまっているようである。 今年の夏も相当に暑い。宅のすぐ向う側に風呂屋が建つことになって、昨日から取毀しが始まった。この出来事によって今年の夏の暑さの記憶は・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・『たけくらべ』第十回の一節はわたくしの所感を証明するに足りるであろう。春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶことこの通りのみにて七十五輌と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 彼のエイトキン夫人に与えたる書翰にいう「此夏中は開け放ちたる窓より聞ゆる物音に悩まされ候事一方ならず色々修繕も試み候えども寸毫も利目無之夫より篤と熟考の末家の真上に二十尺四方の部屋を建築致す事に取極め申候是は壁を二重に致し光線は天井よ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ この間帝国座の二宮君が来て、あなたの明治座の所感と云うものを読んだが、我々の神経は痲痺しているせいだか何だかあなたの口にするような非難はとうてい持ち出す余地がない、芝居になれたものの眼から見ると、筋なぞはどんなに無理だって、妙だって、・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・博士問題に関して突然余の手元に届いた一封の書翰は、実にこの隠者が二十余年来の無音を破る価ありと信じて、とくに余のために認めてくれたものと見える。 下 手紙には日常の談話と異ならない程度の平易な英語で、真率に余の学・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ 翌十二日に至って、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左の書翰を送った。実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀御辞退相成たき趣御申出相成候処已に発令済に・・・ 夏目漱石 「博士問題の成行」
・・・無聊に苦んで居た子規は余の書翰を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程の重体で、手紙の文句も頗る悲酸であったから、情誼上何か認めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
・・・然るに、徳教書編纂の事は、先年も文部省に発起して、すでに故森大臣の時に倫理教科書を草し、その草案を福沢先生に示して批評を乞いしに、その節、先生より大臣に贈りたる書翰ならびに評論一編あり。久しく世人の知らざるところなりしかども、今日また徳教論・・・ 福沢諭吉 「読倫理教科書」
・・・盤上には数通の書簡がおとなしく待っていたのである。 ピエエルは郵便を選り分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙わしく選り出して別にした。しかしすぐに開けて読もうともしない。 オオビュルナン先生はしずかに身を起して、その手紙・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫