・・・そんなことを不知不識の間に思っていましたので、それは私にとって非常に怖ろしい瞬間でした。 月光がその人の高い鼻を滑りました。私はその人の深い瞳を見ました。と、その顔は、なにか極まり悪気な貌に変わってゆきました。「なんでもないんです」・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・彼が微笑するごとに、自分も我知らず微笑せざるを得なかった。 そうする中に、志村は突然起ち上がって、その拍子に自分の方を向いた、そして何にも言いがたき柔和な顔をして、にっこりと笑った。自分も思わず笑った。「君は何を書いているのだ、」と・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ 豊吉はわれ知らずその後について、じっと少年の後ろ影を見ながらゆく、その距離は数十歩である、実は三十年の歳月であった。豊吉は昔のわれを目の前にありありと見た。 少年と犬との影が突然消えたと思うと、その曲がり角のすぐ上の古木、昔のまま・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・何が社会的に善事であるかを知らずして実行することは出来ず、行為の主体が自己である以上は自己と社会との関係を究めないわけにはいかないからである。それ故に倫理学の研究は単に必要であるというだけでなく、真摯な人間である以上、境遇が許す限りは研究せ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・純良な、世間知らずの学生がこの種の女に引っかかって、あたら青春の記憶を汚す例は少なくない。そのくらいではすまず、かなり大きな傷と負担を背負わされることがある。ことに妊娠というようなことにでもなれば、抜き差しならぬ破目に陥ることがある。これは・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなかったが、約一年目に出てきたシャバは、矢張り知らずに彼を興奮させていたのだろう。 これは、田口の話である。別に小説と云うべきものでもない。 ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・お前のような身のほど知らずのさもしい女ばかりいるから日本は苦戦するのだ。お前なんかは薄のろの馬鹿だから、日本は勝つとでも思っているんだろう。ばか、ばか。どだい、もうこの戦争は話にならねえのだ。ケツネと犬さ。くるくるっとまわって、ぱたりとたお・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・と思ったが、その思ったのが既に愉快なので、眼の前にちらつく美しい着物の色彩が言い知らず胸をそそる。「もう嫁に行くんだろう?」と続いて思ったが、今度はそれがなんだか侘しいような惜しいような気がして、「己も今少し若ければ……」と二の矢を継いでた・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・それである一つの歌と次の歌とが表面上関係はないようでも、それから少し下層へ掘込んで行くとどこかで、しっかり必然的につながっているように思われ、それを掘込んで行くときに結局不知不識に自分自身の体験の世界に分け入ってその世界の中でそれに相当する・・・ 寺田寅彦 「書簡(2[#「2」はローマ数字2、1-13-22])」
・・・ ナ、何を馬鹿な、俺は仮にも職長だ、会社の信任を負い、また一面、奴らの信頼を荷のうて、数百の頭に立っているのだ……あンな恩知らずの、義理知らずの、奴らに恐れて、家をたたんで逃げ出すなンて、そんな侮辱された話があるものか。「うるさいッ・・・ 徳永直 「眼」
出典:青空文庫