・・・これは、元和六年、加賀の禅僧巴なるものの著した書物である。巴は当初南蛮寺に住した天主教徒であったが、その後何かの事情から、DS 如来を捨てて仏門に帰依する事になった。書中に云っている所から推すと、彼は老儒の学にも造詣のある、一かどの才子だっ・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・が、筆のついでに、座中の各自が、好、悪、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、一……何某……好なものは、美人。「遠慮は要らないよ。」 悪むものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。 箇条の中に、・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ 目の下およそ八寸ばかり、濡色の鯛を一枚、しるし半纏という処を、めくら縞の筒袖を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身に取って、尾を空に、向顱巻の結びめと一所に、ゆらゆらと刎ねさせながら、掛声でその量を増すように、魚の頭を、下腹から膝頭へ、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・(身を悶お蔦 (はっと泣いて、早瀬に縋一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣の涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・少しもしるしはない。見込みのあるものやら無いものやら、ただわくわくするのみである。こういううち、医者はどうして来ないかと叫ぶ。あおむけに寝かして心臓音を聞いてみた。素人ながらも、何ら生ある音を聞き得ない。水を吐いたかと聞けば、吐かないという・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・と言いながら、婆アさんが承知のしるしに僕の猪口に酒を酌いで、下りて行った。 三「お前の生れはどこ?」「東京」「東京はどこ?」「浅草」「浅草はどこ?」「あなたはしつッこいのね、千束町よ」「あ、あ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・この四五日手にとってみることもなく溜っていた古い新聞を、その溜っていることをいかにも自分の悲しみのしるしのように思いながら、見るともなく見ていた道子は、急に眼を輝かした。南方派遣日本語教授要員の募集の記事が、ふと眼に止ったのである。「南・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・壜の内側を身体に付著した牛乳を引き摺りながらのぼって来るのであるが、力のない彼らはどうしても中途で落ちてしまう。私は時どきそれを眺めていたりしたが、こちらが「もう落ちる時分だ」と思う頃、蠅も「ああ、もう落ちそうだ」というふうに動かなくなる。・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 娘に対して注文がないということは生への冷淡と、遅鈍のしるしでほめた話ではない。むしろさかんな注文を出して、立派な、特色のある娘たちを産み出してもらいたいものだ。 イギリスの貴族の青年は祖国の難のあるとき、ぐずぐずしていると、令嬢た・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 女は、居るというしるしに、うなずいて見せて、自分の身を脇の箱を置いてある方へそらし、ウォルコフが通る道をあけた。「どうした、どうした。また××の犬どもがやって来やがったか。」 一分間ばかりたつと、その戸口へよく肥った、頬の肉が・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
出典:青空文庫