・・・この女をここへ遣わされたのもあるいはそう云う神意かも知れない。「お子さんはここへ来られますか。」「それはちと無理かと存じますが……」「ではそこへ案内して下さい。」 女の眼に一瞬間の喜びの輝いたのはこの時である。「さようで・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・墓地の松や生垣の中には、辛夷の花が白らんでいる、天気の好い日曜の午過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜をしただけだった。「それでもう好いの?」 母は水を手向けな・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・枕もとに置いた時計の針が、十二時近くなったのを見ると、彼はすぐにメリヤスの襯衣へ、太い腕を通し始めた。お蓮は自堕落な立て膝をしたなり、いつもただぼんやりと、せわしなそうな牧野の帰り仕度へ、懶い流し眼を送っていた。「おい、羽織をとってくれ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・は云わば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。 つまり二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻の如何に依ったのではない。寧ろ地上に遍満した我我の愚昧に依ったのである。哂うべき、――しかし壮厳・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ああ云う大嗔恚を起すようでは、現世利益はともかくも、後生往生は覚束ないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将もいつか康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも熊野とか王子とか、由緒のある神を拝むのではない。この島の火山には鎮・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・「私は鍼医です。」 髯のある男はためらわずに、悠然と参謀の問に答えた。「次手に靴も脱いで見ろ。」 彼等はほとんど無表情に、隠すべき所も隠そうとせず、検査の結果を眺めていた。が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を検べて見ても、証拠・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・が、辛夷は似ている癖に、きっと南へ花を向けている。保吉は巻煙草に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒が一羽舞い下って来た。鶺鴒も彼には疎遠ではない。あの小さい尻尾を振るのは彼を案内する信号である。「こっち!・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」 妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・何時の間に花が咲いて散ったのか、天気になって見ると林の間にある山桜も、辛夷も青々とした広葉になっていた。蒸風呂のような気持ちの悪い暑さが襲って来て、畑の中の雑草は作物を乗りこえて葎のように延びた。雨のため傷められたに相異ないと、長雨のただ一・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・この故に観音経を誦するもあえて箇中の真意を闡明しようというようなことは、いまだかつて考え企てたことがない。否な僕はかくのごとき妙法に向って、かくのごとく考えかくのごとく企つべきものでないと信じている。僕はただかの自ら敬虔の情を禁じあたわざる・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
出典:青空文庫