・・・あなたさまは私ども親子の大恩人でございます」 ホモイは、その赤いものの光で、よくその顔を見て言いました。 「あなた方は先頃のひばりさんですか」 母親のひばりは、 「さようでございます。先日はまことにありがとうございました。せ・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・ その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。 そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかす・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・みんなは山男があんまり紳士風で立派なのですっかり愕ろいてしまいました。ただひとりその中に町はずれの本屋の主人が居ましたが山男の無暗にしか爪らしいのを見て思わずにやりとしました。それは昨日の夕方顔のまっかな蓑を着た大きな男が来て「知って置くべ・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・例えば親子間の愛――この世にたった一つしかないいきさつですらも、どれだけ円満にいっていましょう。愛と平和――それは今の経済学、哲学とかの学問で説明したり、解剖したりする論理としての論理でなく、皆の分かり切った常識として、人間の生活に自由なも・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・これらの飾らず、たくまざる人々の記録と、職業家のルポルタージュとの対比は、文学に関心をもつ者の心に真摯な考慮を呼びさまさずにはいない。又、いつかは「支那さん」と呼ばれている人々の記述も広汎な世界の文学の領野にあらわれて来る日があるであろう。・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・列車がプラットフォームへ止るや否や、Y、日本紳士をヘキエキさして「キム」に関係があるかもしれぬという名誉の猜疑心を誘発させたところの鞣外套をひっかけてとび出してしまった。 後から、駅の待合室へ行って見たが、そんな名物の売店なし。又電燈で・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
「伸子」は一九二四年から一九二六年の間に書かれた。そのころの日本にはもう初期の無産階級運動がおこっていたし、無産階級文学の運動もおこっていた。けれども作者は直接そういう波にふれる機会のない生活環境にあった。「伸子」には、日本・・・ 宮本百合子 「あとがき(『伸子』)」
「伸子」は、一九二四年頃から三年ほどかかって書かれた。丁度、第一次ヨーロッパ大戦が終った時から、その後の数年間に亙る時期に、日本の一人の若い女性が、人及び女として、ひたすら成長したい熱望につき動かされて、与えられた中流的な環・・・ 宮本百合子 「あとがき(『伸子』第一部)」
「伸子」の続篇をかきたい希望は、久しい間作者の心のうちにたくわえられていた。 一九三〇年の暮にモスクから帰って、三一年のはじめプロレタリア文学運動に参加した当時の作者の心理は、自分にとって古典である「伸子」を、過去の作品・・・ 宮本百合子 「あとがき(『二つの庭』)」
・・・は、その後にかかれた長篇「伸子」の短く途絶えた序曲のような性質をもっている。あるいは、嵐がおそって来る前の稲妻の閃きのような。「白い蚊帳」は時期から云えば「我に叛く」より数年あとになるが、これも或る意味では「伸子」に添えてよまれるべき性質の・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第三巻)」
出典:青空文庫