・・・ちょっと断わっておくが、僕はある脚本――それによって僕の進退を決する――を書くため、材料の整理をしに来ているので、少くとも女優の独りぐらいは、これを演ずる段になれば、必要だと思っていた時だ。「お前が踊りを好きなら、役者になったらどうだ?・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ こんなくだらない物思いに沈んでいるよりも、しばらく怠っていた海水浴でもして、すべての考えを一新してしまおうかと思いつき、まず、あぐんでいる身体を自分で引き立て、さんざんに肘を張って見たり、胸をさすって見たり、腕をなぐって見たりしたが、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その第一回は美妙の裸蝴蝶で大分前受けがしたが、第二回の『於母影』は珠玉を満盛した和歌漢詩新体韻文の聚宝盆で、口先きの変った、丁度果実の盛籠を見るような色彩美と清新味で人気を沸騰さした。S・S・Sとは如何なる人だろう、と、未知の署名者の謎がい・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・が、緑雨のスッキリした骨と皮の身体つき、ギロリとした眼つき、絶間ない唇辺の薄笑い、惣てが警句に調和していた。何の事はない、緑雨の風、人品、音声、表情など一切がメスのように鋭どいキビキビした緑雨の警句そのままの具象化であった。 私が緑雨を・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・平生の知己に対して進退行蔵を公明にする態度は間然する処なく、我々後進は余り鄭重過ぎる通告に痛み入ったが、近い社員の解職は一片の葉書の通告で済まし、遠いタダの知人には頗る慇懃な自筆の長手紙を配るという処に沼南の政治家的面目が仄見える心地がする・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・「しかし、あなたがたは、自由に飛んで歩ける身体だから、なにも、人間のいうとおりにならなくてもいいのだ。人間のいないところへいってしまえば、つらいめにもあわなくてすむというものだ。」「ひのきの木さん、おまえさんも、年をとって、すこし、・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・その主人の親戚で亀やんという老人が、青物の行商に毎日北田辺から出てくるが、もうだいぶ身体が弱っているので、車の先引きをしてくれる若い者を探してくれと頼まれていたらしい。帰って秋山さん――例の男は秋山といいました――に相談すると、賛成してくれ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・という眼におそれを成して、可能性の文学という大問題について、処女の如く書き出していると、雲をつくような大男の酔漢がこの部屋に乱入して、実はいま闇の女に追われて進退谷まっているんだ、あの女はばかなやつだよ、おれをつかまえて離さないんだ、清姫み・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・のだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を見あげるようにして、砂利を敷いた坂路を、ひょろ高い屈った身体してテク/\上って行くのであった。松・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・何だか身体の具合が平常と違ってきて熱の出る時間も変り、痰も出ず、その上何処となく息苦しいと言いますから、早速かかりつけの医師を迎えました。その時、医師の言われるには、これは心臓嚢炎といって、心臓の外部の嚢に故障が出来たのですから、一週間も氷・・・ 梶井久 「臨終まで」
出典:青空文庫