・・・『先生今日は。』『この二、三日見えないようであったね。』『相変わらず忙しいもんですから。』『マアお上がんなさいな、今日はどちらへ。』お神さんは幸吉の衣装に目をつけて言った。『神田の叔父の処へちょっと行って来ました、先生今・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ この夜自分は学校の用で神田までゆき九時頃帰宅って見ると、妻が助を背負ったまま火鉢の前に坐って蒼い顔というよりか凄い顔をしている。そして自分が帰宅っても挨拶も為ない。眼の辺には泣きただらした痕の残っているのが明々地と解る。 この様子・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ そこでこの人、暇具合さえ良ければ釣に出ておりました。神田川の方に船宿があって、日取り即ち約束の日には船頭が本所側の方に舟を持って来ているから、其処からその舟に乗って、そうして釣に出て行く。帰る時も舟から直に本所側に上って、自分の屋敷へ・・・ 幸田露伴 「幻談」
私は慶応三年七月、父は二十七歳、母は二十五歳の時に神田の新屋敷というところに生まれたそうです。其頃は家もまだ盛んに暮して居た時分で、畳数の七十余畳もあったそうです。併し世の中が変ろうというところへ生れあわせたので、生れた翌・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・宮柱太しく立てる神殿いと広く潔らなるに、此方より彼方へ二行に点しつらねたる御燈明の奥深く見えたる、祝詞の声のほがらかに澄みて聞えたる、胆にこたえ身に浸みて有りがたく覚えぬ。やがて退り立ちて、ここの御社の階の下の狛犬も狼の形をなせるを見、酒倉・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・度と馴染めば馴染むほど小春がなつかしく魂いいつとなく叛旗を翻えしみかえる限りあれも小春これも小春兄さまと呼ぶ妹の声までがあなたやとすこし甘たれたる小春の声と疑われ今は同伴の男をこちらからおいでおいでと新田足利勧請文を向けるほどに二ツ切りの紙・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 或人は、電車で神田神保町のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとび下りると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先は・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ 八年前の話である。神田の宿の薄暗い一室で、私は兄に、ひどく叱られていた。昭和八年十二月二十三日の夕暮の事である。私は、その翌年の春、大学を卒業する筈になっていたのだが、試験には一つも出席せず、卒業論文も提出せず、てんで卒業の見込みの無・・・ 太宰治 「一燈」
・・・ 私の夫は、神田の、かなり有名な或る雑誌社に十年ちかく勤めていました。そうして八年前に私と、平凡な見合い結婚をして、もうその頃から既にそろそろ東京では貸家が少くなり、中央線に沿った郊外の、しかも畑の中の一軒家みたいな、この小さい貸家をや・・・ 太宰治 「おさん」
・・・五 この男の勤めている雑誌社は、神田の錦町で、青年社という、正則英語学校のすぐ次の通りで、街道に面したガラス戸の前には、新刊の書籍の看板が五つ六つも並べられてあって、戸を開けて中に入ると、雑誌書籍のらちもなく取り散らされた室・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫