・・・――誰に習っていつ覚えた遣繰だか、小皿の小鳥に紙を蔽うて、煽って散らないように杉箸をおもしに置いたのを取出して、自棄に茶碗で呷った処へ――あの、跫音は――お澄が来た。「何もございませんけれど、」と、いや、それどころか、瓜の奈良漬。「山家です・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 仰向けに、鐘を見つつ、そこをちらちらする蜻蛉に向って、自棄に言った。「いや、……自分で拝もう。」 時に青空に霧をかけた釣鐘が、たちまち黒く頭上を蔽うて、破納屋の石臼も眼が窪み口が欠けて髑髏のように見え、曼珠沙華も鬼火に燃えて、・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 洪水の襲撃を受けて、失うところの大なるを悵恨するよりは、一方のかこみを打破った奮闘の勇気に快味を覚ゆる時期である。化膿せる腫物を切開した後の痛快は、やや自分の今に近い。打撃はもとより深酷であるが、きびきびと問題を解決して、総ての懊悩を・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 何ほど恐怖絶望の念に懊悩しても、最後の覚悟は必ず相当の時機を待たねばならぬ。 豪雨は今日一日を降りとおして更に今夜も降りとおすものか、あるいはこの日暮頃にでも歇むものか、もしくは今にも歇むものか、一切判らないが、その降り止む時刻に・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・或人は営業開始の時期を訊いた。或人は焼けた書籍の中の特記すべきものを訊いた。或人は丸善の火災が文明に及ぼす影響などゝ云う大問題を提起した。中には又突拍子もない質問を提出したものもあった。曰く、『焼けた本の目録はありますか?』 丸善は如何・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・もしある時期に達して小樅を斫り払ってしまうならば大樅は独り土地を占領してその成長を続けるであろうと。しかして若きダルガスのこの言を実際に試してみましたところが実にそのとおりでありました。小樅はある程度まで大樅の成長を促すの能力を持っておりま・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ しかし、それは、木を移す時期でなかったので、実もしなびてしまえば、木も枯れてしまいました。 けっきょく、男は、ほねおり損に終わったわけです。 小川未明 「ある男と無花果」
・・・ かつて、極めて孤独な時期が私にもあった。ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木犀の匂いが閃いた。私はなんということもなしに胸を温めた。雨あがりの道だった。 二、三日してアパートの部屋に、・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・妾になれと客はさすがに時機を見逃さなかった。毎朝、かなり厚化粧してどこかへ出掛けて行くので、さては妾になったのかと悪評だった。が本当は、柳吉が早く帰るようにと金光教の道場へお詣りしていたのだった。 二十日余り経つと、種吉のところへ柳吉の・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・モグラモチのように蠢きながらも生きて行かねばならぬ、罪業の重さに打わなきながらも明るみを求めて自棄してはならぬ――こういった彼の心持の真実は自分にもよくわかる気がする。といって自分のあの作が、それだけの感動に値いするものだとはけっして考えは・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫