・・・あの明確な頭脳の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地らに未来の目標に向って突進しようという勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周囲を視廻し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖も除き去らずには措かぬと・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そんなときふと邪慳な娼婦は心に浮かび、喬は堪らない自己嫌厭に堕ちるのだった。生活に打ち込まれた一本の楔がどんなところにまで歪を及ぼして行っているか、彼はそれに行き当るたびに、内面的に汚れている自分を識ってゆくのだった。 そしてまた一本の・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・「大家さんが交番へ行ってくださったら、俺の管轄内に事故のあったことがないって。いつでもそんなことを言って、巡回しないらしいのよ」 大家の主婦に留守を頼んで信子も市中を歩いた。 三 ある日、空は早春を告げ知らせ・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・閑な線で、発車するまでの間を、車掌がその辺の子供と巫山戯ていたり、ポールの向きを変えるのに子供達が引張らせてもらったりなどしている。事故などは少いでしょうと訊くと、いやこれで案外多いのです。往来を走っているのは割合い少いものですが、など車掌・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・この時十蔵室の入り口に立ちて、君らは早く逃げたまわずやというその声、その挙動、その顔色、自己は少しも恐れぬようなり。この時振動の力さらに加わりてこの室の壁眼前に崩れ落つる勢いすさまじく岡村と余とは宮本宮本と呼び立てつつ戸外に駆けいでたり。十・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・何が社会的に善事であるかを知らずして実行することは出来ず、行為の主体が自己である以上は自己と社会との関係を究めないわけにはいかないからである。それ故に倫理学の研究は単に必要であるというだけでなく、真摯な人間である以上、境遇が許す限りは研究せ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・如何に正義、人道を表面に出して、自己の行為を弁護しようとも、それは、泥棒自身の利益のために、人を欺くものである。而も、現在、この縄張りの広狭争いのような喧嘩が起ろうとしているのである。これが将に起ろうとする××主義戦争である。 近代資本・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・ お浪はこの自己を恃む心のみ強い言を聞いて、驚いて目を瞠って、「一人でって、どう一人でもって?」と問い返したが返辞が無かったので、すぐとまた、「じゃあ誰の世話にもならないでというんだネ。」と質すと、源三は術無そうに、かつ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・木戸木戸の権威を保ち、町の騒動や危険事故を防いで安寧を得せしむる必要上から、警察官的権能をもそれに持たせた。民事訴訟の紛紜、及び余り重大では無い、武士と武士との間に起ったので無い刑事の裁断の権能をもそれに持たせた。公辺からの租税夫役等の賦課・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ なるほど、人間、いな、すべての生物には、自己保存の本能がある。栄養である。生活である。これによれば、人はどこまでも死をさけ、死に抗するのが自然であるかのように見える。されど、一面にはまた種保存の本能がある。恋愛である。生殖である。これ・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫