・・・そして遥か東の方に小塚ッ原の大きな石地蔵の後向きになった背が望まれたのである。わたくしはもし当時の遊記や日誌を失わずに持っていたならば、読者の倦むをも顧ずこれを採録せずにはいなかったであろう。 わたくしは遊廓をめぐる附近の町の光景を説い・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。第四夜 広い土間の真中に涼み台のようなものを据えて、その周囲に小さい床几が並べてある。台は黒光りに光っている。片隅には四角な膳を前に置・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・また徳義のみを脩めて智恵の働あらざる者は石の地蔵にひとしく、これまた人にして人にあらざる者なり。 両者のともに欠くべからざるは右の如くなりといえども、今日の文明は道徳の文明にあらず。昔日の道徳も今日の道徳も、その分量においてはさらに増減・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・吠えながら駈け廻った、八十七個所は落ちなく巡って今一個所という真際になって気のゆるんだ者か、そのお寺の門前ではたと倒れた、それを如何にも残念と思うた様子で、喘ぎ喘ぎ頭を挙げて見ると、目の前に鼻の欠けた地蔵様が立ってござるので、その地蔵様に向・・・ 正岡子規 「犬」
・・・動坂を下りて、ずっとゆくと、二股になった道があって、そこに赤い紙をどっさり貼りつけられた古い地蔵さんの立っている辻堂があった。田端の駅へゆくときは、その地蔵のところから左へとって、杉林などが見えるところから又右へ入って、どうにかしてゆくと、・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ 古風な鎖でたぐる車井戸へゆく右手に、十ばかり地蔵の並んだところがあった。その地蔵はどれも小さくて、丁度そこの前をとおってゆくわたしたち子供ぐらいの高さに、目鼻だちのはっきりしない、つるりとした頭の、苔のついた顔々をならべている。古びき・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ いかにも貧乏しそうな、不活溌な、生気のない、青黒い顔をして居て、地蔵眉の下にトロンとした細い眼は性質の愚鈍なのをよく表わして居る。 こんな農民だとか、土方などと云う労働者によく見る様な、あの細い髪がチリチリと巻かって、頭の地を包み・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・安寿は守本尊の地蔵様を大切におし。厨子王はお父うさまの下さった護り刀を大切におし。どうぞ二人が離れぬように」安寿は姉娘、厨子王は弟の名である。 子供はただ「お母あさま、お母あさま」と呼ぶばかりである。 舟と舟とは次第に遠ざかる。後ろ・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・二十九日には、土地のものが皆地蔵様へ詣るというので、石田も寺町へ往って見た。地蔵堂の前に盆燈籠の破れたのを懸け並べて、その真中に砂を山のように盛ってある。男も女も、線香に火を附けたのを持って来て、それを砂に立てて置いて帰る。 中一日置い・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・入り口のところには道側の芝の中に小さい石の地蔵様が並んでいました。それと向かい合った道側の雑草の上に、荒蓆が一枚敷いてあります。その上に彼は父親と二人でしゃがみました。そこへ来るまで彼は、道側に立って会葬者にお辞儀するのだろうと考えていまし・・・ 和辻哲郎 「土下座」
出典:青空文庫