・・・ 警官は斯う繰返してものの一分もじっと彼の顔を視つめていたが、「……忘れたか! 僕だよ! ……忘れたかね? ウヽ? ……」 警官は斯う云って、初めて相好を崩し始めた。「あ君か! 僕はまた何物かと思って吃驚しちゃったよ。それに・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ その青年の顔は相手の顔をじっと見詰めて返答を待っていた。「僕がそんなマニヤのことを言う以上僕にも多かれ少なかれそんな知識があると思っていいでしょう」 その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、そう答えて彼はまた平気・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 水野が堪え堪えし涙ここに至りて玉のごとく手紙の上に落ちたのを見て、聴く方でもじっと怺えていたのが、あだかも電気に打たれたかのように、一斉に飛び立ったが感極まってだれも一語を発し得ない。一種言うべからざるすさまじさがこの一区画に充ちた。・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ 彼も、じっと老人を見た。 四 何故、憲兵隊へつれて来られたか、その理由が分らずに、彼は、湿っぽい、地下室の廊下を通って帰るように云われた。彼は自分が馬鹿にせられたような気がして腹立たしかった。廊下の一つの扉は・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ その三 色々な考えに小な心を今さら新に紛れさせながら、眼ばかりは見るものの当も無い天をじっと見ていた源三は、ふっと何の禽だか分らない禽の、姿も見えるか見えないか位に高く高く飛んで行くのを見つけて、全くお浪に対ってでは無・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・火鉢のふちに両肱を立てて、ちょうどさかずきを目の高さに持っていた女は、口元まで持っていったのをやめて、じっとそれに見入った。両方とも少しだまった。と、女は顔をあげで、「そんなこときいて何するの?」ときいた。そして、「イヤ! 私いや!・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・釣りだ遠足だと言って日曜ごとに次郎もじっとしていなかった時代だ。いったい、次郎はおもしろい子供で、一人で家の内をにぎやかしていた。夕飯後の茶の間に家のものが集まって、電燈の下で話し込む時が来ると、弟や妹の聞きたがる怪談なぞを始めて、夜のふけ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ ウイリイはそのとおりにしてびんを入れて下りて来て、じっと見ていました。そのうちに親烏がかえって来ました。親烏は子烏が一ぴき死んでいるのを見ると、いきなりそこにあるびんをくわえて、大急ぎでどこかへ飛んでいきました。それから、間もなくかえ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・おじいさんが、こう、縁側にじっとして坐っていると、もう、それだけで、ロマンチックじゃないの。素晴らしいわ。」「老人か。」長兄は、ちょっと考える振りをして、「よし、それにしよう。なるべく、甘い愛情ゆたかな、綺麗な物語がいいな。こないだのガ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ しかし勇吉はじっとしてはいられなかった。正月の初めにもっと家賃の安い家を別な方面にさがして、遁げるようにして移転して行った。刑事の監視をのがれたいという腹もあった。出来るならば、この都会の群集と雑沓との中に巧みにまぎれ込んで了いたいと・・・ 田山花袋 「トコヨゴヨミ」
出典:青空文庫