・・・長十郎は掻巻の裾をしずかにまくって、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見ると、忠利もじっと見返した。「長十郎お願いがござりまする」「なんじゃ」「ご病気はいかにもご重体のようにはお見受け申しまするが、神仏の加護良薬の功験で、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 小さい女房はツァウォツキイの顔をじっと見ていたが、目のうちに涙が涌いて来た。 ツァウォツキイは拳を振り上げた。「泣きゃあがるとぶち殺すぞ。」 こう云っておいて、ツァウォツキイはひょいと飛び出して、外から戸をばったり締めた。そし・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ お霜は勘次をじっと見た。「しぶったれ!」勘次は小屋の外へ出ていった。 お霜は何ぜ勘次が怒るのか全く分らなかった。が、自分の吝嗇の一事として、曽て勘次を想わない念から出たことがあっただろうか? 彼女は追っ馳けていって自分の悩まし・・・ 横光利一 「南北」
・・・馴らしてあるものと見えて、その炭のような目で己をじっと見ている。低い戸の側に、沢の好い、黒い大きい、猫が蹲って、日向を見詰めていて、己が側へ寄っても知らぬ顔をしている。 そこへ弦のある籐の籠にあかすぐりの実を入れて手に持った女中が通り掛・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・そこへがっかりして腰を下した。じっと坐って、遠慮して足を伸ばそうともしないでいる。なんでも自分の腰を据えた右にも左にも人が寝ているらしい。それに障るのが厭なのである。 暫く気を詰めて動かずにいると、額に汗が出て来る。が重くなって目が塞が・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ 私はガラス越しにじっと窓の外をながめていました。そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫