・・・が、猿は熟柿を与えず、青柿ばかり与えたのみか、蟹に傷害を加えるように、さんざんその柿を投げつけたと云う。しかし蟹は猿との間に、一通の証書も取り換わしていない。よしまたそれは不問に附しても、握り飯と柿と交換したと云い、熟柿とは特に断っていない・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・塩辛いきれの熟柿の口で、「なむ、御先祖でえでえ」と茶の間で仏壇を拝むが日課だ。お来さんが、通りがかりに、ツイとお位牌をうしろ向けにして行く……とも知らず、とろんこで「御先祖でえでえ。」どろりと寝て、お京や、蹠である。時しも、鬱金木綿が薄よご・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 駒鳥はね、丈の高い、籠ん中を下から上へ飛んで、すがって、ひょいと逆に腹を見せて熟柿の落こちるようにぼたりとおりて、餌をつついて、私をばかまいつけない、ちっとも気に懸けてくれようとはしなかった、それでもない。皆違ってる。翼の生えたうつく・・・ 泉鏡花 「化鳥」
・・・ 中二階といってもただ段の数二ツ、一段低い処にお幾という婆さんが、塩煎餅の壺と、駄菓子の箱と熟柿の笊を横に控え、角火鉢の大いのに、真鍮の薬罐から湯気を立たせたのを前に置き、煤けた棚の上に古ぼけた麦酒の瓶、心太の皿などを乱雑に並べたのを背・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・冬の日は釣瓶おとしというより、梢の熟柿を礫に打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。 こんなにも、清らかなものかと思う、お米の頸を差覗くようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯を視た。 信仰に頒・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 横なでをしたように、妹の子は口も頬も――熟柿と見えて、だらりと赤い。姉は大きなのを握っていた。 涎も、洟も見える処で、「その柿、おくれな、小母さんに。」 と唐突にいった。 昔は、川柳に、熊坂の脛のあたりで、みいん、みい・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・姉たちがすわるにせまいといえば、身を片寄せてゆずる、彼の母は彼を熟視して、奈々ちゃんは顔構えからしっかりしていますねいという。 末子であるから埒もなくかわいいというわけではないのだ。この子はと思うのは彼の母ばかりではなく、父の目にもそう・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 私達は、黒人に対する米人の態度を見、また印度の殖民地に於ける英人の政策を熟視して、彼等が真に人類を愛する信念の何れ程迄に真実であるかを疑わなければならないが、そして、このたびの軍備縮小などというが如き、其の実、戦争を予期しての企てに対・・・ 小川未明 「芸術は革命的精神に醗酵す」
・・・心さえ急かねば謀られる訳はないが、他人にして遣られぬ前にというのと、なまじ前に熟視していて、テッキリ同じ物だと思った心の虚というものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃食わせられたのである。親父はさすがに老功で、後家の・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・と自分は男の顔を熟視り乍ら言った。「これから将来、君がどんな出世をするかも知れない。僕がまた今日の君のように困らないとも限らない。まあ、君、左様じゃないか。もし君が壮大な邸宅でも構えるという時代に、僕が困って行くようなことがあったら、其時は・・・ 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫