・・・それで無うてから既に露店の許された時間は経過して、僅に巡行の警官が見て見ぬ振という特別の慈悲を便りに、ぼんやりと寂しい街路の霧になって行くのを視めて、鼻の尖を冷たくして待っておったぞ。 処へ、てくりてくり、」 と両腕を奮んで振って、・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 少し距離を隔てて巡行せる八田巡査は思わず一足前に進みぬ。渠はそこを通り過ぎんと思いしならん。さりながらえ進まざりき。渠は立ち留まりて、しばらくして、たじたじとあとに退りぬ。巡査はこのところを避けんとせしなり。されども渠は退かざりき。造・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 当時、安堂寺橋に巡航船の乗場があり、日本橋まで乗せて二銭五厘で客を呼んでいたが、お前はその乗場に頑張って、巡航船へ乗る客を、俥の方へ横取りしようと、金切声で呶鳴っていた。巡航船に赤い旗がついているのを見て、お前も薄汚れた俥にそれと似た・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ ところが、翌る日には登勢ははや女中たちといっしょに、あんさんお下りさんやおへんか、寺田屋の三十石が出ますえと、キンキンした声で客を呼び、それはやがて淀川に巡航船が通うて三十石に代るまでのはかない呼び声であったが、登勢の声は命ある限りの・・・ 織田作之助 「螢」
・・・「実は今ここを巡行するとね、何だか黒い影が御門から出て行きましたから……」 婆さんの顔は土のようである。何か云おうとするが息がはずんで云えない。巡査は余の方を見て返答を促す。余は化石のごとく茫然と立っている。「いやこれは夜中はな・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 明治二十年ごろまでの世の中は面白くて、明治大帝の東北御巡幸のとき久留米開墾の爺さんが、何の珍らしいものもないが、これは近来の出色の物産として三尺ばかりの大根を一本三宝にのせて御覧に入れた。そして、おほめの言葉を頂いた。 そんなに貧・・・ 宮本百合子 「村の三代」
出典:青空文庫