・・・と唄い終ったが、末の摘んで取ろの一句だけにはこちらの少年も声を合わせて弥次馬と出掛けたので、歌の主は吃驚してこちらを透かして視たらしく、やがて笑いを帯びた大きな声で、「源三さんだよ、憎らしい。」と誰に云ったのだか分らない・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・が、それはまたそれで丁度そういう調子合のことの好きな磊落な人が、ボラ釣は豪爽で好いなどと賞美する釣であります。が、話中の人はそんな釣はしませぬ。ケイズ釣りというのはそういうのと違いまして、その時分、江戸の前の魚はずっと大川へ奥深く入りました・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・それから次の日にモウ一度読ませた。次の手紙が来る迄、その同じ手紙を何べんも読むことにした。 * とり入れの済んだ頃、母親とお安は面会に出てきた。母親は汽車の中で、始終手拭で片方の眼ばかりこすっていた。 何べんも間・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・だが、この母親は俺がこういう処に入っているとは知らずに、俺の好きな西瓜を買っておいて、今日は帰ってくる、そしてその日帰って来ないと、明日は帰ってくると云って、たべたがる弟や妹にも手をつけさせないで、終いにはそれを腐らせてしまったそうだ。俺は・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・物数寄な家族のもののあつまりのことで、花の風情を人の姿に見立て、あるものには大音羽屋、あるものには橘屋、あるものには勉強家などの名がついたというのも、見るからにみずみずしい生気を呼吸する草の一もとを頼もうとするからの戯れであった。時には、大・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・そういう中で、わたしの好きな薫だけは残った。わたしの家の庭で見せたいものは、と言ったところで、ほんとに猫の額ほどしかないような狭いところに僅かの草木があるに過ぎないが、でもこの支那の蘭の花のさかりだけは見せたい。薫は、春咲く蘭に対して、秋蘭・・・ 島崎藤村 「秋草」
子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈を比べに行った。次郎の背の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分ぐらいで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・こういう次第で心内には一も確固不動の根柢が生じない。不平もある、反抗もある、冷笑もある、疑惑もある、絶望もある。それでなお思いきってこれを蹂躙する勇気はない。つまりぐずぐずとして一種の因襲力に引きずられて行く。これを考えると、自分らの実行生・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・そんな風であるから、どうして外の人の事に気を留める隙があろう。自分と一しょに歩いているものが誰だということをも考えないのである。連とはいいながら、どの人をも今まで見た事はない。ただふいと一しょになったのである。老人の前を行く二人は、跡から来・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 次に舜典に徴するに、舜は下流社會の人、孝によりて遂に帝位を讓られしが、その事蹟たるや、制度、政治、巡狩、祭祀等、苟も人君が治民に關して成すべき一切の事業は殆どすべて舜の事蹟に附加せられ、且人道中最大なる孝道は、舜の特性として傳へらるゝ・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
出典:青空文庫