・・・日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透き徹っている。富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・その翌日から予算が日程に上ぼっていて、大分盛んな議論があるらしい。その晩は無事に済んだ。その次の日の午前も無事に済んだ。ところが午後になると、議会から使が来て、大きなブックを出して、それに受取を書き込ませた。 門番があっけに取られたよう・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・その当時の彼の地の新聞は彼の風采と講演ぶりを次のように伝えている。「……。ちょっと見たところでは別に堂々とした様子などはない。中背で、肥っていて、がっしりしている。四十三にしてはふけて見える。皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・八、九歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間外れの観があった。ただその頃から真と正義に対する極端な偏執が目に立った。それで人々は「馬鹿正直」という渾名を彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事に・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・大きいのでせいぜい二、三分四方、小さいのは虫眼鏡ででも見なければならないような色紙の片が漉き込まれているのである。それがただ一様な色紙ではなくて、よく見るとその上には色々の規則正しい模様や縞や点線が現われている。よくよく見ているとその中のあ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・店の軒には、青や赤の短冊に、歌か俳句か書き散らしたのが、隙間もなく下がって風にあおられている。こう云う不思議な店へこんな物を買いに来る人があるかと怪しんだが、実際そう云う御客は一度も見た事がなかった。それにもかかわらず店はいつでも飾られてい・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ホワイトナイルの岸べに生まれたある黒んぼ少年の数奇な冒険生涯を物語る続きものの映画を中学校の某先生が黄色い声で説明したものである。それからずっと後の事ではあるが日清戦争時代にもしばしば「幻燈会」なるものが劇場で開かれて見に行った。県出身の若・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・しかし今になって考えてみると、かなり数奇の生涯を体験した政客であり同時に南画家であり漢詩人であった義兄春田居士がこの芭蕉の句を酔いに乗じて詠嘆していたのはあながちに子供らを笑わせるだけの目的ではなかったであろうという気もするのである。そうし・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
・・・ 書物の大きさは三二×四三・五センチメートルで、用紙は一枚漉きの純白の鳥の子らしい。表紙は八雲氏が愛用していた蒲団地から取ったものだそうで、紺地に白く石燈籠と萩と飛雁の絵を飛白染めで散らした中に、大形の井の字がすりが白くきわ立って織り出・・・ 寺田寅彦 「小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」」
・・・ 子供の時から僧になった人とちがって、北面武士から出発し、数奇の実生活を経て後に頭を丸めた坊主らしいところが到る処に現われている。そうしてそういう人間が、全く気任せに自由に「そこはかとなく」「あやしう」「ものぐるほしく」矛盾も撞着も頓着・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
出典:青空文庫