・・・「洋一が悪いんです。さきに僕の顔へトランプを叩きつけたんだもの。」「嘘つき。兄さんがさきに撲ったんだい。」 洋一は一生懸命に泣き声で兄に反対した。「ずるをしたのも兄さんだい。」「何。」 兄はまた擬勢を見せて、一足彼の・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
思想と実生活とが融合した、そこから生ずる現象――その現象はいつでも人間生活の統一を最も純粋な形に持ち来たすものであるが――として最近に日本において、最も注意せらるべきものは、社会問題の、問題としてまた解決としての運動が、い・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・同じ町内に同じ名の人が五人も十人もあった時、それによって我々の感ずる不便はどれだけであるか。その不便からだけでも、我々は今我々の思想そのものを統一するとともに、またその名にも整理を加える必要があるのである。 見よ、花袋氏、藤村氏、天渓氏・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 地誌を按ずるに、摩耶山は武庫郡六甲山の西南に当りて、雲白く聳えたる峰の名なり。山の蔭に滝谷ありて、布引の滝の源というも風情なるかな。上るに三条の路あり。一はその布引より、一は都賀野村上野より、他は篠原よりす。峰の形峻厳崎嶇たりとぞ。し・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、たいていは自殺そのものの悲劇をのみ強く感ずるのであろう。しかし自殺者その人の身になったならば、われとわれを殺すその実劇よりは、自殺を覚悟するに至る以前の懊悩が、遥かに自殺そのものよりも苦し・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・緑雨は竹馬の友の万年博士を初め若い文学士や学生などと頻りに交際していたが、江戸の通人を任ずる緑雨の眼からは田舎出の学士の何にも知らないのが馬鹿げて見えたのは無理もなかった。若い学士の方でも緑雨の社会通を相当に認めて、そういう方面の解らない事・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ただ、小鳥がきて、のどかに花の咲いている枝から枝に伝ってさえずるばかりでありました。 夏がきても、また同じでありました。静かな自然には、変わりがないのです。日暮れ方になると、真っ赤に海のかなたが夕焼けして、その日もついに暮るるのでした。・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・ 店先へ立ち迎えて見ると、客は察しに違わぬ金之助で、今日は紺の縞羅紗の背広に筵織りのズボン、鳥打帽子を片手に、お光の請ずるまま座敷へ通ったが、後見送った若衆の為さんは、忌々しそうに舌打ち一つ、手拭肩にプイと銭湯へ出て行くのであった。・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・磯高く曳き上げし舟の中にお絹お常は浴衣を脱ぎすてて心地よげに水を踏み、ほんに砂粒まで数えらるるようなと、海近く育ちて水に慣れたれば何のこわいこともなく沖の方へずんずんと乳の辺りまで出ずるを吉次は見て懐に入れし鼈甲の櫛二板紙に包んだままをそっ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・と命ずることができずに、「いかようにせよ」「いかようにす」など命じ得るのみである。たとえばキリストの山上の垂訓にあるように、「隣人を愛せよ」とか「姦淫するなかれ」とか発言することができずに、「汝の意欲の準則が普遍的法則たり得るように行為せよ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫