・・・それ等の本はいつの間にか手ずれの痕さえ煤けていた。のみならずまた争われない過去の匂を放っていた。たね子は細い膝の上にそれ等の本を開いたまま、どう云う小説を読む時よりも一生懸命に目次を辿って行った。「木綿及び麻織物洗濯。ハンケチ、前掛、足・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・「人ずれはちっともしていらっしゃいませんね。」「それは何しろ坊ちゃんですから、……しかしもう一通りのことは心得ていると思いますが。」 僕はこう云う話の中にふと池の水際に沢蟹の這っているのを見つけました。しかもその沢蟹はもう一匹の・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・われ夫人の気高く清らかなるを愛ずれば、愈夫人を汚さまく思い、反ってまた、夫人を汚さまく思えば、愈気高く清らかなるを愛でんとす。これ、汝らが屡七つの恐しき罪を犯さんとするが如く、われらまた、常に七つの恐しき徳を行わんとすればなり。ああ、われら・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・下の大きな、顴骨の高い、耳と額との勝れて小さい、譬えて見れば、古道具屋の店頭の様な感じのする、調和の外ずれた面構えであるが、それが不思議にも一種の吸引力を持って居る。 丁度私が其の不調和なヤコフ・イリイッチの面構えから眼を外らして、手近・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・ 戸は内へ、左右から、あらかじめ待設けた二人の腰元の手に開かれた、垣は低く、女どもの高髷は、一対に、地ずれの松の枝より高い。 十一「どうぞこれへ。」 椅子を差置かれた池の汀の四阿は、瑪瑙の柱、水晶の廂であ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・い女の生肝で治ると言って、――よくある事さ。いずれ、主人の方から、内証で入費は出たろうが、金子にあかして、その頃の事だから、人買の手から、その年月の揃ったという若い女を手に入れた。あろう事か、俎はなかろうよ。雨戸に、その女を赤裸で鎹で打った・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・打棄ったように忌々しげに呟いて、頬冠を取って苦笑をした、船頭は年紀六十ばかり、痩せて目鼻に廉はあるが、一癖も、二癖も、額、眦、口許の皺に隠れてしおらしい、胡麻塩の兀頭、見るから仏になってるのは佃町のはずれに独住居の、七兵衛という親仁である。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 夜雨戸を閉めるのはいずれ女中の役目だろう故、まえもってその旨女中にいいつけて置けば済むというものの、しかしもう晩秋だというのに、雨戸をあけて寝るなぞ想えば変な工合である。宿の方でも不要心だと思うにちがいない。それを押して、病気だからと・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・当時、私の感想は「新人らしくなく、文壇ずれがしていて、顔をそむけたくなった」という上林暁の攻撃を受け、それは無理からぬことであったが、しかし、上林暁の書いている身辺小説がただ定跡を守るばかりで、手のない時に端の歩を突くなげきもなく、まして、・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・一行三人いずれも白い帷子を着て、おまけに背中には「南無妙法蓮華経」の七字を躍らすなど、われながらあやしい装立ちだった。が、それで気がさすどころか、存外糞度胸ができてしまって、まるで村芝居にでも出るようなはしゃぎ方だった。 お前もおれも何・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫