・・・射的では的が三次元空間に静止しているが野球では的が動いているだけに事がらが複雑である。糊べらで飛んでいる蠅をはたき落とす芸術とこの点では共通である。 近ごろボルンが新しい統計的物理学の基礎を論じた中に、ウィルヘルム・テルがむすこの頭上の・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・そもそも日本の女の女らしい美点――歩行に不便なる長い絹の衣服と、薄暗い紙張りの家屋と、母音の多い緩慢な言語と、それら凡てに調和して動かすことの出来ない日本的女性の美は、動的ならずして静止的でなければならぬ。争ったり主張したりするのではなくて・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・池かと思うほど静止した堀割の水は河岸通に続く格子戸づくりの二階家から、正面に見える古風な忍返をつけた黒板塀の影までをはっきり映している。丁度汐時であろう。泊っている荷舟の苫屋根が往来よりも高く持上って、物を煮る青い煙が風のない空中へと真直に・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・活殺生死の乾坤を定裏に拈出して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁がして窓の外なる下界を見んとする。 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・余が修善寺で生死の間に迷うほどの心細い病み方をしていた時、池辺君は例の通りの長大な躯幹を東京から運んで来て、余の枕辺に坐った。そうして苦い顔をしながら、医者に騙されて来て見たと云った。医者に騙されたという彼は、固より余を騙すつもりでこういう・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・彼は簡単に、早いじゃありませんか、今朝起きたらすぐ上がるつもりでいたところをお迎えで――と言ったまま、そこへすわって、自分の顔を正視した。この時はたから二人の様子を虚心に観察したら、重吉のほうが自分よりはるかに無邪気に見えたに違いない。自分・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・畏くも万邦をしてその所を得せしめると宣らせられる。聖旨も此にあるかと恐察し奉る次第である。十八世紀的思想に基く共産的世界主義も、此の原理に於て解消せられなければならない。 今日の世界大戦の課題が右の如きものであり、世界新秩序の原理が右の・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・我々が真に生死を賭し得る実践も、此から出て来るのである。私はかかる意味において、デカルトの問題と方法とに同意を表するものである。哲学に入るものに、彼の『省察録』の熟読を勧めたい。しかし私は彼は遂にその目的と方法に徹底せなかったと考えるもので・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・僕は人の前に出る毎に、この反対衝動の発作が恐ろしく、それの心配と制止観念とで、休む間もなく心を疲らし、気を張りきって居らねばならぬ。その苦しさと苛だたしさとは、到底筆紙に説明することが出来ないのである。しかも表面はさりげなく、普通に会話して・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
出典:青空文庫