・・・秋冬の交、深夜夢の中に疎雨斑々として窓を撲つ音を聞き、忽然目をさまして燈火の消えた部屋の中を見廻す時の心持は、木でつくった日本の家に住んで初て知られる風土固有の寂寥と恐怖の思である。孟宗竹の生茂った藪の奥に晩秋の夕陽の烈しくさし込み、小鳥の・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・もしこれより以前に橋がなかったとすれば、両岸の風景は今日よりも更に一層寂寥であったに相違ない。 晴れた日に砂町の岸から向を望むと、蒹葭茫々たる浮洲が、鰐の尾のように長く水の上に横たわり、それを隔ててなお遥に、一列の老松が、いずれもその幹・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・すこぶる寂寥たるものだ。主人夫婦は事件の落着するまでは毎晩旧宅へ帰って寝なければならぬ。新宅には三階に寝る妹とカーロー君とジャック君とアーネスト君である。カーロー君とジャック君は犬の名であってアーネスト君はここの主人の店に使っている若き人間・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ の初聯で始まる「寂寥」の如き詩は、その情感の深く悲痛なることに於て、他に全く類を見ないニイチェ独特の名篇である。これら僅か数篇の名詩だけでも、ニイチェは抒情詩人として一流の列に入り得るだらう。 ニイチェのショーペンハウ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、何一つ物音のない、かすかな息の響きさえ聞こえそうな寂寥を、鈍くつんざいていた。 安岡は、耳だけになっていた。 プツッ! と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。腐屍の臭いが、安岡・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・フの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたり畳の上に下したり、力を入れ己れの食いものの為に骨を折っているうちに陽子は悲しく自分が哀れで涙が出そうになって来た、家庭を失った人間の心の寂寥があたりの夜から迫って来た、陽子は手・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ただ、寂寥々とした哀愁が、人生というもの、生涯というものを、未だ年に於て若く、仕事に於て未完成である自分の前途にぼんやりと照し出したのです。 けれども、その某博士が逝去されたという文字を見た瞬間、自分の胸を打ったものは、真個のショックで・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・嘗て わたしの歓に於て無二であった人今はこの寂寥を生む無二の人貴方は何処の雲間に見なれたプロファイルを浮べて居ますか。 三十一日うたわず 云わぬ我心を西北の風よかなたの胸に 吹きおくれ・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・が、今ここには美しい寂寥がみち拡がっている。 室内にはやや色のさめた更紗張の椅子、同じ布張のテーブルがおいてある。二人の日本女は急に静かで頭の芯がジーンとなったような気持で顔を洗った。 戸を叩いて、 ――もういいですか? 停・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・愛する者を次々に送って、最後に自分の番になる寂寥を思うと殆ど堪え難く成った。 日数が経つと、そんな感情の病的に弱々しい部分は消えた。私は再び自分の健康も生も遠慮なく味い出した。私はやはり日向で、一寸したことに喜んで、高い声をあげてはあは・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
出典:青空文庫