・・・り、三年たって、今日、精も根も使いはたして、洋服の中に腐りかけた泥がいっぱいだぶだぶたまって、ああ、夕立よ、ざっと降れ、銀座のまんなかであろうと、二重橋ちかきお広場であろうと、ごめん蒙って素裸になり、石鹸ぬたくって夕立ちにこの身を洗わせたく・・・ 太宰治 「喝采」
・・・僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがんで石鹸をてのひらに塗り無数の泡を作った。よほどあわてていたものとみえる。はっと気づいたけれど、僕はそれでもわざとゆっくり、カランから湯を出して、てのひらの泡を洗いおとし、湯槽へはいった。・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・縄に石鹸を塗りつけるほどに、細心に安楽の往生を図ることについては、私も至極賛成であって、甥の医学生の言に依っても、縊死は、この五年間の日本に於いて八十七パアセント大丈夫であって、しかもそのうえ、ほとんど無苦痛なそうではないか。いちどは薬品で・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・たためて、私と、それからもう一人、道づれの、その、同行の相手は、姿見えぬ人、うなだれつつ、わが背後にしずかにつきしたがえるもの、水の精、嫋々の影、唇赤き少年か、鼠いろの明石着たる四十のマダムか、レモン石鹸にて全身の油を洗い流して清浄の、やわ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ むごたらしい人間の私は、三毛がこの防腐剤にまみれた足と子猫で家じゅうの畳をよごしあるく事に何よりも当惑したので、すぐに三毛をかかえて風呂場にはいって石鹸で洗滌を始めたが、このねばねばした油が密生した毛の中に滲透したのはなかなか容易には・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ある一つの大きな台に積上げた品物を何かとよく見るとそれがことごとく石鹸の箱入りであった。 売店で煙草を買っていると、隣の喫茶室で電話をかけている女の声が聞こえる。「猫のオルガン六つですか」と何遍も駄目をおしている。「猫のオルガン」が何の・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・土人の中には大きな石鹸のような格好をした琥珀を二つ、布切れに貫ぬいたのを首にかけたのがいた。やはり土人の巡査が、赤帽を着て足にはサンダルをはき、鞭をもって甲板に押し上がろうとする商人を制していた。 一時に出帆。昨夜電扇が止まって暑くて寝・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 自分の経験では金だらいの縁がひどく油あかでよごれているときは鳴らない。石鹸で一応洗った時によく鳴るようである。しかし絶対に油脂を除去するのは簡単にはできないので、その場合にどうなるかは不明である。 この場合に油膜の存在と摩擦の関係・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
・・・然るにあらゆる節倹ををしてかようなわびしい住居をしているのはね、一つは自分が日本におった時の自分ではない単に学生であると云う感じが強いのと、二つ目にはせっかく西洋へ来たものだから成る事なら一冊でも余計専門上の書物を買って帰りたい慾があるから・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・お前はそれ等の血と肉とを、バケット・コンベヤーで、運び上げ、啜り啖い、轢殺車は地響き立てながら地上を席捲する。 かくて、地上には無限に肥った一人の成人と、蒼空まで聳える轢殺車一台とが残るのか。 そうだろうか! そうだとするとお前・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
出典:青空文庫