・・・ と不図思出したように、原は戸口のところに立って尋ねた。「乙骨かい」と相川は受けて、「乙骨は君、どうして」「何卒、御逢いでしたら宜しく」「ああ」 そこそこにして原は出て行った。 その日は、人の心を腐らせるような、ジメ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・自分は初めて貝殻の事を思いだして、そこそこに水天宮のところまで帰ってくる。 夕日がはるか向いの島蔭に沈みかかっている。貝殻はもう止そうかしらと思ったが、何だか気がすまぬゆえ、せめて三つ四つばかりでもと思って干潟へ下りる。嫁の皿という貝殻・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・という題の、二十頁そこそこのパンフレットでございましたから、引受けて印刷する事になったのでございますが、私はいつもその原稿を読み活字を拾い、しだいに文学熱にかぶれて、本屋へ行って当時の大家の詩集なども買って来て読むようになり、だんだん自信の・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・自分ながら少々気が変だと思ってそこそこに塔を出る。塔橋を渡って後ろを顧みたら、北の国の例かこの日もいつのまにやら雨となっていた。糠粒を針の目からこぼすような細かいのが満都の紅塵と煤煙を溶かして濛々と天地を鎖す裏に地獄の影のようにぬっと見上げ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・なぜならいままでは塩水選をしないでやっと反当二石そこそこしかとっていなかったのを今度はあちこちの農事試験場の発表のように一割の二斗ずつの増収としても一町一反では二石二斗になるのだ。みんなにもほんとうにいいということが判るようになったら、・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ むかではびっくりして、はなしもなにもそこそこに別れて逃げて行ってしまいました。 クねずみはそれからだんだん天井裏街の方へのぼって行きました。天井裏街のガランとした広い通りでは、ねずみ会議員のテねずみがもう一ぴきのねずみとはなしてい・・・ 宮沢賢治 「クねずみ」
・・・ 日暮れが早いからニーナの室には電燈がついているが、時刻にすればまだ四時そこそこである。今日の退け時ほど工場の出入口が陽気だったことはない。 工場委員会は、各職場へ、特別婦人デーのための芝居割引券をどっさり配った。ニーナはそれを貰わ・・・ 宮本百合子 「ソヴェト同盟の三月八日」
・・・経営主任の責任ある位置にいるひとはやっと三十そこそこで、その辺にいる誰彼と一向違わない鳶色のルバーシカを着、元気に仕事をやっている。鞄を小脇に抱えた連中が盛に出入りする、青い技師の制帽をかぶったのも来る。主任は日本の女がモスクワから遠い炭坑・・・ 宮本百合子 「ドン・バス炭坑区の「労働宮」」
・・・ せきは、自分の迂闊さに呆れて、そこそこに湯をきり上げて来た。間借人に対してはいつもあれ程要心深い自分がどうしてそれに目をつけなかっただろう。日本服さえ着ていたら、どんなに隠したって見破ってやれたのに! せきは、異人の女のあの大きな白い・・・ 宮本百合子 「街」
・・・一同にそこそこに挨拶をして、室町の達見という宿屋にはいった。 隊から来ている従卒に手伝って貰って、石田はさっそく正装に着更えて司令部へ出た。その頃は申告の為方なんぞは極まっていなかったが、廉あって上官に謁する時というので、着任の挨拶は正・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫