・・・夜のまったく明けはなれたころ、二人は、帝国ホテルの前庭の蓮の池のほとりでお互いに顔をそむけながら力の抜けた握手を交してそそくさと別れ、その日のうちにシゲティは横浜からエムプレス・オブ・カナダ号に乗船してアメリカへむけて旅立ち、その翌る日、東・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ここに暫くとじこもって一つの仕事が出来あがると私は、そそくさと三鷹を引き上げる。逃げ出すのである。旅に出る。けれども、旅に出たって、私の家はどこにも無い。あちこちうろついて、そうしていつも三鷹の事ばかり考えている。三鷹に帰ると、またすぐ旅の・・・ 太宰治 「誰」
・・・しかった衣類の、大半を、戦火で焼いてしまったので、こんど生れる子供の産衣やら蒲団やら、おしめやら、全くやりくりの方法がつかず、母は呆然として溜息ばかりついている様子であるが、父はそれに気附かぬ振りしてそそくさと外出する。 ついさっき私は・・・ 太宰治 「父」
・・・脱衣場で、そそくさ着物を着ていたら、湯槽のほうでは、なごやかな世間話がはじまった。やはり私が、気取って口を引きしめて、きょろきょろしていると異様のもので、老人たちにも、多少気づまりの思いを懐かせていたらしく、私がいなくなると、みんなその窮屈・・・ 太宰治 「美少女」
・・・(急にはにかみ、畳の上の出刃庖丁をそそくさと懐失礼しました。帰りましょう。清蔵さん、早くお嫁をもらいなさい。数枝には、もう、……。お母さん! そうですか。数枝さん、あなたもひどい女だ。凄い腕だ。おそれいりましたよ。私が毛虫なら、・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・上り下りの電車がホームに到着するごとに、たくさんの人が電車の戸口から吐き出され、どやどや改札口にやって来て、一様に怒っているような顔をして、パスを出したり、切符を手渡したり、それから、そそくさと脇目も振らず歩いて、私の坐っているベンチの前を・・・ 太宰治 「待つ」
・・・貞子は、あわてそそくさと降りて、三浦君のほうを振り返り振り返り、それでも姉の後に附いて行った。 三浦君のバスは動いた。いきなり妹は、くるりとこちらに向き直って一散に駈けた。バスも走る。妹は、泣くように顔をゆがめて二十メートルくらい追いか・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・毎日、用事ありげに、麹町の自宅の裏門から、そそくさと出掛ける。実に素早い。この祖父は、壮年の頃は横浜で、かなりの貿易商を営んでいたのである。令息の故新之助氏が、美術学校へ入学した時にも、少しも反対せぬばかりか、かえって身辺の者に誇ってさえい・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 酒保の男は手をつけかねてしばし立って見ていたが、そのまま、蝋燭の蝋を垂らして、テーブルの上にそれを立てて、そそくさと扉の外へ出ていった。蝋燭の光で室は昼のように明るくなった。隅に置いた自分の背嚢と銃とがかれの眼に入った。 蝋燭の火・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・まアお待ちよと言ったが、なかなか言うことを聞きそうにもないので、洗濯の手を前垂れでそそくさと拭いて、前の縁側に腰をかけて、子供を抱いてやった。そこへ総領の女の児も来て立っている。 客間兼帯の書斎は六畳で、ガラスの嵌まった小さい西洋書箱が・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫