・・・ヴァニラの香味がなんとも知れず、見た事も聞いた事もない世界の果ての異国への憧憬をそそるのであった。それを、リキュールの杯ぐらいな小さなガラス器に頭を丸く盛り上げたのが、中学生にとってはなかなか高価であって、そうむやみには食われなかった。それ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ただ事がらが自然科学の事実に関する限り、それを新聞社会欄の記事として錯覚的興味をそそることだけは遠慮なくやめたほうがいいであろうと思う。何人をも益することなくして、ただ日本の新聞というものの価値をおとすだけだからである。 五・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・がわれわれに無限の資料を与え感興をそそるのもそのためであろう。ただし、そういう役に立つためには記録の忠実さと感想の誠実さがなければならないであろう。 これが私の平生こうした断片的随筆を書く場合のおもなる動機であり申し訳である。人にものを・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・もなんとも言いはしなかったが、しかし、あの咄嗟の場合に、自分が、もう少し血のめぐりの早い人間であったら、何も考えないで即座に電車切符をやらないではおかないであったろうと思われるほどに実に気の毒な思いをそそる何物かがあの父子の身辺につきまとっ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・新聞記事は例によってまちまちであって、感傷をそそる情的資料は豊富でも考察に必要な正確な物的資料は乏しいのであるが、内務省警保局発表と称する新聞記事によると発火地点や時刻や延焼区域のきわめてだいたいの状況を知ることはできるようである。まず何よ・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・大衆的な某誌は、その反動保守的な編輯方針の中で、色刷り插絵入りで、食い物のこと、悲歎に沈む人妻の涙話、お国のために疲れを忘れる勤労女性の実話、男子の興味をそそる筆致をふくめた産児制限談をのせて来た。 また、或る婦人雑誌はその背後にある団・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・仮に下関から東京までの戦災の、あの空虚、又只乏しさ丈の見える平面が、どんな感情をそそるだろう。日本の都市と云われた集合地の立体性の皆無さにおどろき 日本の近代文化のおくれた足どりに憐憫とやや嫌悪を抱くだろう。生活上の見聞と感覚の発達した日本・・・ 宮本百合子 「観光について」
・・・そして共感をそそる味いに溢れている。○ 午後、建物の内廊下を歩き初め。傷のところをぎゅっと抑えて歩く。それでも胃の方を引っぱるようで気分がわるい。いい加減で中止。○ バラさん風呂。一人で椅子にかけ、窓の高いところから青い冬空と風にゆ・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・財界の特需景気と警察予備隊景気、戦争気分をそそるレッド・パージとそれに対蹠する戦犯一万九百人の解放。われわれ日本の人民は、事実をどう語っていいのか、不安におかれはじめた。 平和の問題こそ、いまの日本の運命にとって、中心課題である。みんな・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
・・・うす黒い柳の幹に、しみのある哥麿の絵や豊国の、若い私達の心をそそる様な曲線の絵が女達の袂のゆれに動く空気にふるえて居る――その絵のにせものなんかを見る余裕もないほどに私の心にせまって来る。目のとどかないほど高い建物のわきに、――まぼしい電燈・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
出典:青空文庫