・・・佐吉さんの兄さんは沼津で大きい造酒屋を営み、佐吉さんは其の家の末っ子で、私とふとした事から知合いになり、私も同様に末弟であるし、また同様に早くから父に死なれている身の上なので、佐吉さんとは、何かと話が合うのでした。佐吉さんの兄さんとは私も逢・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・り萩原某に面合わするが如く阿露の乙女に逢見る心地す相川それの粗忽しき義僕孝助の忠やかなる読来れば我知らず或は笑い或は感じてほと/\真の事とも想われ仮作ものとは思わずかし是はた文の妙なるに因る歟然り寔に其の文の巧妙なるには因ると雖も彼の圓朝の・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・プトレミー派の学者は地球を不動と考えて、太陽は勿論其の他の遊星も皆その周囲を運行するものと考えた。後にコペルニカスの地動説が出て前説よりも遥かに簡単に天体の運動を説明し得る事が分り、ケプレル、ニュートンを経ていよいよ簡単な運動の方則で天体の・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・ 桜花は上野の山内のみならず其の隣接する谷中の諸寺院をはじめ、根津権現の社地にも古来都人の眺賞した名木が多くある。斎藤月岑の東都歳事記に挙ぐるものを見れば、谷中日暮里の養福寺、経王寺、大行寺、長久院、西光寺等には枝垂桜があり、根津の社内・・・ 永井荷風 「上野」
・・・三次が棒を翳した時繩は切れそうにぴんと吊った。其の瞬間棒はぽくりと犬の頭部を撲った。犬は首を投げた。口からは泡を吹いて後足がぶるぶると顫えた。そうして一声も鳴かなかった。「おっつあん、うまくいっちゃった」と先刻の対手は釣してある蓆か・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・』 其方の声がぴたと止まったら、何なすったかと思って見ると、彼の可厭な学生が其の顔を凝乎と見て居るのでした。『あらッ、また来てよ。』 若子さんと私が異口同音に斯う云って、云合せた様に其処を去ろうとしますと、先刻入口の処で見掛けた・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・然らば即ち今日の女大学は小説に非ず、戯作に非ず、女子教育の宝書として、都鄙の或る部分には今尚お崇拝せらるゝものにてありながら、宝書中に記す所は明かに現行法律に反くもの多し。其の民心に浸潤するの結果は、人を誤って法の罪人たらしむるに至る可し。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・されど若し其の身のある調子とか意気な調子とかいうものは如何なもので御座る、拙者未だ之を食うたことは御座らぬと、剽軽者あって問を起したらんには、よしや富婁那の弁ありて一年三百六十日饒舌り続けに饒舌りしとて此返答は為切れまじ。さる無駄口に暇潰さ・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・施主が一鍬入れたのであろう、土の塊りが一つ二つ自分の顔の上の所へ落ちて来たような音がする。其のあとはドタバタドタバタと土は自分の上に落ちて来る。またたく間に棺を埋めてしまう。そうして人夫共は埋めた上に土を高くして其上を頻りに踏み固めている。・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ 別に腹も立たない。 其のまんまに仕て置く。 こんな事をひどく気にして居たら女中なんかと一緒に居られるもんじゃあない。 幾度も幾度も女中が変って知った事だけれ共、私が手紙を出しとくれと云って先(ぐ腰をあげる女は好い方である。・・・ 宮本百合子 「秋毛」
出典:青空文庫