・・・が、いよいよ電燈を消して見ると、何度か寝反りを繰り返しても、容易に睡気を催さなかった。 彼の隣には父の賢造が、静かな寝息を洩らしていた。父と一つ部屋に眠るのは、少くともこの三四年以来、今夜が彼には始めてだった。父は鼾きをかかなかったかし・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・現にその日も万八の下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明りを揺かしている川波の空に、一反り反った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄にぼやけた中には、目まぐるしく行き交う・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ と仰向けに目をぐっと瞑り、口をひょっとこにゆがませると、所作の棒を杖にして、コトコトと床を鳴らし、めくら反りに胸を反らした。「按摩かみしも三百もん――ひけ過ぎだよ。あいあい。」 あっと呆気に取られていると、「鉄棒の音に目を・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・と反りかえった掛声をして、(みどり屋、ゆき。――荷は千葉と。――ああ、万翠楼だ。……医師と遁げた、この別嬪さんの使ですかい、きみは。……ぼくは店用で行って知ってるよ。……果報ものだね、きみは。……可愛がってくれるだろう。雪白肌の透綾・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 次のは、剃りたての頭の青々とした綺麗な出家。細面の色の白いのが、鼠の法衣下の上へ、黒縮緬の五紋、――お千さんのだ、振の紅い――羽織を着ていた。昨夜、この露路に入った時は、紫の輪袈裟を雲のごとく尊く絡って、水晶の数珠を提げたのに。――・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ お前もおれも何思ったか無精髭を剃り、いつもより短く綺麗に散髪していた。お前の顔も散髪すると存外見られると思ったのは、実にこの時だ。 おれは変にうれしくなってしまい、「日本一の霊灸! 人ダスケ! どんな病気もなおして見せる。▽▽旅館・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・大阪で一番汚ない男だと、妙に反りかえったりしている。 つまりは、その風体の汚なさと、彼という人間との間に、大したギャップがないのだ。いわば板についた汚なさだ。公園のベンチの上で浮浪者にまじって野宿していても案外似合うのだ。 そんな彼・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・中風で寝ている父親に代って柳吉が切り廻している商売というのが、理髪店向きの石鹸、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋であると聞いて、散髪屋へ顔を剃りに行っても、其店で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。ある・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・となだむる善平に反りを返して、綱雄はあくまできっとしていたりしが、いや私はあんな男と交わろうとは決して思いません。見るから浮薄らしい風の、軽躁な、徹頭徹尾虫の好かぬ男だ。私は顔を見るのもいやです。せっかく楽しみにしてここへ来たに、あの男のた・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・笑って、もうさんざん腹を抱えて反りかえるようにして、笑って笑い抜いたかと思うと、今度は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。「お父さま――お前さまの心持は、この俺にはよく解るぞなし。俺もお前さまの娘だ。お前さまに幼少な時・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫