・・・「いえ、……実はわたし自身もほとんど読んだことはないのです。」 ラップは頭の皿を掻きながら、正直にこう返事をしました。が、長老は相変わらず静かに微笑して話しつづけました。「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・「そうか。それではもういいから行って食うといい。俺しもお前の年ごろの時分には、飯も何も忘れてからに夜ふかしをしたものだ。仕事をする以上はほかのことを忘れるくらいでなくてはおもしろくもないし、甘くゆくもんでもない。……しかし今夜は御苦労だ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・A 殊勝な事を言う。それでは今度の下宿はうまい物を食わせるのか。B 三度三度うまい物ばかり食わせる下宿が何処にあるもんか。A 安下宿ばかりころがり歩いた癖に。B 皮肉るない。今度のは下宿じゃないんだよ。僕はもう下宿生活には飽・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・これは巌谷さんの所へ言って来たのであるが、先生は、泉も始めて書くのにそれでは可憫そうだという。慈悲心で黙って書かしてくだすったのであるという。それが絵ごとそっくり田舎の北国新聞に出ている。即ち僕が「冠弥左衛門」を書いたのは、この前年であるか・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 考え出すと果てがない。省作は胸がおどって少し逆上せた。人に怪しまれやしまいかと思うと落ち着いていられなくなった。省作は出たくもない便所へゆく。便所へいってもやはり考えられる。 それではおとよさんは、どうもおれを思ってるのかもしれな・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・「君と久し振りで会って、愉快に飲んだし、思いもよらない君の戦話を聴いたし、もう、何にも不満足はない。休ませて貰おう。」「それでは二階へ行こか?」「まア、鳥渡待っておくれやす」と、細君は先ず僕等の寝床を敷きにあがった。僕等は暫くし・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・なお更これから先きも手許に置いて面倒を見てやりたいが、それでは世間が承知しない。俺は決してお前を憎むのではないが暫らく余焔の冷めるまで故郷へ帰って謹慎していてもらいたいといって、旅費その他の纏まった手当をくれた。その外に、修養のための書籍を・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種を蒔いた。一ヵ年かかって菜種を五・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・今の教育は多くの生徒を一教場の内に集めて、与えられたる教科を教うるようであるが、それでは各個人に就て深い注意を与えて各の個性の開発伸長を計ることは誠に困難な事だ。 然しそれも教師の心得次第では全く出来ぬ事ではない。ここにして思えば昔の漢・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・ と、ひどく真面目な表情で言った。それでは、ここで私を待ち伏せていたのかと、返事の仕様もなく、湯のなかでふわりふわりからだを浮かせていると、いきなり腕を掴まれた。「彼女はなんぞ僕の悪ぐち言うてましたやろ?」 案外にきつい口調だっ・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫