・・・するとそのひっそりした中に、板の間を踏む音がしたと思うと、洋一をさきに賢造が、そわそわ店から帰って来た。「今お前の家から電話がかかったよ。のちほどどうかお上さんに御電話を願いますって。」 賢造はお絹にそう云ったぎり、すぐに隣りへはい・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 翌日の午後六時、お君さんは怪しげな紫紺の御召のコオトの上にクリイム色の肩掛をして、いつもよりはそわそわと、もう夕暗に包まれた小川町の電車停留場へ行った。行くとすでに田中君は、例のごとく鍔広の黒い帽子を目深くかぶって、洋銀の握りのついた・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・K中尉はちょっと不快になり、そわそわ甲板士官の側へ歩み寄った。「どうしたんだ?」「何、副長の点検前に便所へはいっていたもんだから。」 それは勿論軍艦の中では余り珍らしくない出来事だった。K中尉はそこに腰をおろし、スタンションを取・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・新蔵はこう云いながら、お敏と一しょに元来た石河岸の方へゆっくり歩き出しましたが、相手はやはり落着かない容子で、そわそわ後ばかり見返りますから、「どうしたんだ。まるで追手でもかかりそうな風じゃないか。」と、わざと調戯うように声をかけますと、お・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・しかもその糺問の声は調子づいてだんだん高められて、果ては何処からともなくそわそわと物音のする夕暮れの町の空気が、この癇高な叫び声で埋められてしまうほどになった。 しばらく躊躇していたその子供は、やがて引きずられるように配達車の所までやっ・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ さあ、其処へ、となると、早や背後から追立てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々と歩行き出したが、取って三十という年紀の、渠の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気さは、この浪が立とうとする用意に、フイと静まった海らし・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・進行中に、大石軍曹は何とのうそわそわして、ただ、まえの方へ、まえの方へと浮き足になるんで、或時、上官から、大石、しッかりせい。貴様は今からそんなざまじゃア、大砲の音を聴いて直ぐくたばッてしまうやろ云われた時、赤うなって腹を立て、そないに弱い・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・僕が囲炉裡のそばに坐っているにもかかわらず、ほとんどこれを意にかけないかのありさまで、ただそわそわと立ったりいたり、――少しも落ちついていなかった。 そこへ通知してあったのだろう、青木がやって来た。炉のそばへ来て、僕と家のものらにちょっ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・それかあらぬか、父は生れたばかりの私の顔をそわそわと覗きこんで、色の白いところ、鼻筋の通ったところ、受け口の気味など、母親似のところばかり探して、何となく苦りきっていたといいます。父は高座へ上ればすぐ自分の顔の色のことを言うくらい色黒で、鼻・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ と、そわそわ出掛けて行ったきり、宿へ戻って来なかった。 蒸気船の汽笛の音をきいた途端に、逐電しやがったとわかり、薄情にもほどがあると、すぐあとを追うて、たたきのめしてくれようと、一旦は起ち上がったが、まさか婆さんを置き去りにするわ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫