・・・とある雑木林の出っ鼻の落ち葉の上に風呂敷をしいてすわり込んで向かいの丘を写し始めた。平生はただ美しいとばかりで不注意に見過ごしている秋の森の複雑な色の諧調は全く臆病な素人絵かきを途方にくれさせる。まだ目の鋭くないわれわれ初学者にとってはおそ・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 臓器から製した薬剤の効果がその中に含有するきわめて微量な金属のためであって、その効果はその薬を焼いて食わせても変わらないらしいという説がある。しかし、それかと言ってその金属の粉をなめたのでは何もならない。ここに未知の大きな世界の暗示が・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・肝油その他の臓器製薬の効能が医者によって認められるより何百年も前から日本人は鰹の肝を食い黒鯛の胆を飲んでいたのである。 これを要するに日本の自然界は気候学的・地形学的・生物学的その他あらゆる方面から見ても時間的ならびに空間的にきわめて多・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・ 普通犬の鳴き声というものは、後も先も鉈刀で打ち切った薪雑木を長く継いだ直線的の声である。今聞く唸り声はそんなに簡単な無造作の者ではない。声の幅に絶えざる変化があって、曲りが見えて、丸みを帯びている。蝋燭の灯の細きより始まって次第に福や・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから。 それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理窟の立たない漫然としたものではないのです。い・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・赤松とちいさな雑木しか生えていないでしょう。ところがそのへん、麓の緩い傾斜のところには青い立派な闊葉樹が一杯生えているでしょう。あすこは古い沖積扇です。運ばれてきたのです。割合肥沃な土壌を作っています。木の生え工合がちがって見えましょう。わ・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・ ただ名もない雑木が秋に会ってその葉を風情もない様な茶色にかえてガサガサして居る時、紅葉にくらべる美くしさはどこにもない様に思える。 しかしにぶい日光がその葉の上にただよった時葉の縁には細い細いしかしながらまばゆいばかりの金線が出来・・・ 宮本百合子 「繊細な美の観賞と云う事について」
・・・ 後年渡辺治衛門というあかじや銀行のもち主がそこを買いしめて、情趣もない渡辺町という名をつけ、分譲地にしたあたり一帯は道灌山つづきで、大きい斜面に雑木林があり、トロッコがころがったりしている原っぱは広大な佐竹ケ原であった。原っぱをめぐっ・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ 巡査は、毛虫だらけの雑木の中をくぐって、垣根際まで行ったり、裏門の扉によじ登ったりして見た。「このトタン塀はのぼれませんがね、 ちと此の門の方がくさい。 一体斯う云う風に横木を細かく打った戸は、風流ではあるが、足が・・・ 宮本百合子 「盗難」
硝子戸に不思議に縁がある。この間まで借りていた二階の部屋は東が二間、四枚の素通し硝子であった。朝日が早くさし込む。空が雑木の梢を泛べて広く見渡せ、枝々の間から遙に美しく緑青をふいた護国寺の大屋根が見えた。温室に住んでいるよ・・・ 宮本百合子 「春」
出典:青空文庫