・・・教授用フィルムに簡単な幻燈でも併用すれば、従来はただ言葉の記載で長たらしくやっている地理学などの教授は、世界漫遊の生きた体験にも似た活気をもって充たされるだろう。そして地図上のただの線でも、そこの実景を眼の当りに経験すれば、それまでとはまる・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・ 吾々は学問というものの方法に馴れ過ぎて、あまりに何でも切り離し過ぎるために、あらゆる体験の中に含まれた一番大事なものをいつでも見失っている。肉は肉、骨は骨に切り離されて、骨と肉の間に潜む滋味はもう味わわれなくなる。これはあまりに勿体な・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・これに反して、むしろ間違いだらけの案内記でも、それが多少でも著者の体験を材料にしたものである場合には、存外何かの参考になる事が多い。 しかしいくら完全でも結局案内記である。いくら読んでも暗唱しても、それだけでは旅行した代わりにはならない・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・そのなつかしさの中にはおそらく自分の子供の時分のこうした体験の追憶が無意識に活動していたものと思われる。またことしの初夏には松坂屋の展覧会で昔の手織り縞のコレクションを見て同じようななつかしさを感じた。もしできれば次に出版するはずの随筆集の・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・人は西洋文化を論理的と考え、東洋文化を単に体験的という。しかし東洋文化を単に体験的というならば、西洋文化の根柢にも体験的なものがあると思う。矛盾的自己同一的なる我々の自己の真の自覚から、対象認識の方向へ行くということは、必ずしも論理的必然で・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・私は自分でも此問題、此事件を、十年の間と云うもの、或時はフト「俺も怖ろしいことの体験者だなあ」と思ったり、又或時は「だが、此事はほんの俺の幻想に過ぎないんじゃないか、ただそんな風な気がすると云う丈けのことじゃないか、でなけりゃ……」とこんな・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・これすなわち宗祖家康公が小身より起りて四方を経営しついに天下の大権を掌握したる所以にして、その家の開運は瘠我慢の賜なりというべし。 左れば瘠我慢の一主義は固より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しとい・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・文化・文学における政治の優位性ということを、たたかいの年月を通じてまじめに体験し、理解している人は、既成の学問の諸分野において、民主的創造、民主的な学問の達成そのものが闘われなければならないことを痛感しています。学問を愛する多くの学生が大学・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ 人は、自分の裡に未だ顕われずに潜む多くの力の総てを出し切る機会を持たなければ、其等力の実値を体験する事は出来ない。 人は結婚によって、少くとも或種の力を自覚させられ、其に就て考慮と反省とを与えられると思う。情慾の力強さ、其の持つ歓・・・ 宮本百合子 「黄銅時代の為」
・・・今までは或る知識として、頭で丈解っていた生活の内容が、多少なりとも体験された。自分の箇性の傾向から必然に成って来た或る運命に真正面から打ち当って見ると、又、全心全身でぶつかって行かずには済まされないような大きな力を感じて見ると、好い加減と云・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
出典:青空文庫