・・・ 私はその手つきを見るたびに、いかに風采が上らぬとも、この手だけで岡惚れしてしまう年増女もあるだろうと、おかしげな想像をするのだったが、仲居の話では、大将は石部金吉だす。酒も煙草も余りやらぬという。併し、若い者の情事には存外口喧しくなく・・・ 織田作之助 「世相」
・・・それとも彼女という対象がそもそも自分には間違った形式なのだろうか」「しかし俺にはまだ一つの空想が残っている。そして残っているのはただ一つその空想があるばかりだ」 机の上の電燈のスタンドへはいつの間にかたくさん虫が集まって来ていた。そ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ それらはなにかその頃の憧憬の対象でもあった。単純で、平明で、健康な世界。――今その世界が彼の前にある。思いもかけず、こんな田舎の緑樹の蔭に、その世界はもっと新鮮な形を具えて存在している。 そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・それはある娘を対象とした、私の子供らしい然も激しい情熱でした。それの非常な不結果であったことはあなたも少しは知っていられるでしょう。 ――父の苦り切った声がその不面目な事件の結果を宣告しました。私は急にあたりが息苦しくなりました。自分で・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・――私の一人相撲はそれとの対照で段々神経的な弱さを露わして来ました。 俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした。そしてそれは何時も私自身の精神が弛んでいるときの徴候でした。然し私自身みじめな気持になったのはその時が最初でし・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・日蔭は日表との対照で闇のようになってしまう。なんという雑多な溷濁だろう。そしてすべてそうしたことが日の当った風景を作りあげているのである。そこには感情の弛緩があり、神経の鈍麻があり、理性の偽瞞がある。これがその象徴する幸福の内容である。おそ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・候この度こそそなたは父にも兄にもかわりて大君の御為国の為勇ましく戦い、命に代えて父の罪を償いわが祖先の名を高め候わんことを返すがえすも頼み上げ候 せめて士官ならばとの今日のお手紙の文句は未練に候ぞ大将とて兵卒とて大君の為国の為に捧げ候命・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・敵は靉河右岸に沿い九連城以北に工事を継続しつつあり、二十八日も時々砲撃しつつあり、二十六日九里島対岸においてたおれたる敵の馬匹九十五頭、ほかに生馬六頭を得たり――「どうです、鴨緑江大捷の前触れだ、うれしかったねえ、あの時分は。胸がどきど・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・ ねえ、そうじゃアないか満谷の大将」と中倉先生の気炎少しくあがる。自分が満谷である。「今晩は」と柄にない声を出して、同じく洋服の先生がはいって来て、も一ツの卓に着いて、われわれに黙礼した。これは、すぐ近所の新聞社の二の面の豪傑兼愛嬌者で・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・然を動かし、変わらざる景色を変え、塊然たる物象を化して夢となし、幻となし、霊となし、怪となし、というに至っては水多く山多き佐伯また実にそうである、しかししいてわが佐伯をウォーズウォルスの湖国と対照する必要はない。手帳と鉛筆とを携えて・・・ 国木田独歩 「小春」
出典:青空文庫