・・・それに私は門を入る途端にフト感じたんだが、この門には、この門がその家の門であると云う、大切な相手の家がなかった。塵の積んである二坪ばかりの空地から、三本の坑道のような路地が走っていた。 一本は真正面に、今一本は真左へ、どちらも表通りと裏・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・左れば男女交際は外面の儀式よりも正味の気品こそ大切なれ。女子の気品を高尚にして名を穢すことなからしめんとならば、何は扨置き父母の行儀を正くして朝夕子供に好き手本を示すこと第一の肝要なる可し。又結婚に父母の命と媒酌とにあらざれば叶わずと言う。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・されど其持前の上よりいわば意こそ大切なれ。意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。されど形は意なくして片時も存すべきものにあらず。意は己の為に存し形は意の為に存するものゆえ、厳敷いわば形の意にはあらで意の形をいう可き・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
脚本作者ピエエル・オオビュルナンの給仕クレマンが、主人の書斎の戸を大切そうに開いた。ちょうど堂守が寺院の扉を開くような工合である。そして郵便物を載せた銀盤を卓の一番端の処へ、注意してそっと置いた。この銀盤は偶然だが、実際あ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・しこうして彼の歌の『万葉』に似ざるところははたして『万葉』に優るところなりや否や、こは最大切なる問題なり。 余は断定を下していわん、曙覧の歌想は『万葉』より進みたるところあり、曙覧の歌調は『万葉』に及ばざるところありと。まず歌想につきて・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・けれども人にはそれよりももっと大切なものがないだろうか。足や舌とも取りかえるほどもっと大切なものがないだろうか。むずかしいけれども考えてごらん。」 アラムハラドが斯う言う間タルラは顔をまっ赤にしていましたがおしまいは少し青ざめました。ア・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・勿論俳優の力量という制約があるが、あの大切な、謂わば製作者溝口の、人生に対する都会的なロマンチシズムの頂点の表現にあたって、あれ程単純に山路ふみ子の柄にはまった達者さだけを漲らしてしまわないでもよかった。おふみと芳太郎とが並んで懸合いをやる・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・ 千代は、越後の大雪の夜、帰らない飲んだくれの父を捜して彼方此方彷徨った有様を憐れっぽく話した。 さほ子にとって、其等の話は本当らしくも、嘘らしくもあった。彼女の話す声は全くそれ等の話に似つかわしいものであったが、容子はちっとも砕け・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・魚住もある時期この錯雑した事情にまけて、受動的な頬杖をついたような気分で暮すが、日頃目をかけていた黒須千太郎をこめる集団脱走事件がおこり、折からの大雪で凍死するにきまっている千太郎を救おうという情熱によって振い立ち、情熱をもって一事を敢行し・・・ 宮本百合子 「作品のテーマと人生のテーマ」
・・・今から五年前のことで、東京が稀有な大雪に覆われた年の出来ごとである。父がその病床についてから会えない娘の私にあてて書いたのは、一つの英語の詩であった。そこには、娘が年を重ね生活の経験を深めるにつれて、いよいよ思いやりをふかめずにいられなくな・・・ 宮本百合子 「父の手紙」
出典:青空文庫