・・・と紳士は不安げに言い足した。「つまり島の形が、こんなぐあいに、」と言って両手で島の形を作って見せて、「こんなぐあいになっていて、汽船がここを走っているので、島が二つあるように見えたのでしょう。」 私は少し背伸びして、その父の手の形を覗い・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・静かにぬき足してその石階を登った。中は暗い。よくわからぬが廊下になっているらしい。最初の戸と覚しきところを押してみたが開かない。二歩三歩進んで次の戸を押したがやはり開かない。左の戸を押してもだめだ。 なお奥へ進む。 廊下は突き当たっ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 数の勘定には十進法の数字だけあればそれでよいというのは、言わば机の三本足を使う流儀であって、これに一見無用な干支を添えるのは用心棒を一本足した四本足を採用する筆法である。むだはむだでも有用なむだであるとも言われる。 十進法というの・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・家は馬道辺で二階を人に貸して家賃の足しにしていた。おかみさんはまだ婆さんというほどではなく、案外垢抜けのした小柄の女で、上野広小路にあった映画館の案内人をしているとの事であった。爺さんはいつでも手拭を後鉢巻に結んでいるので、禿頭か白髪頭か、・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・つまるところは人間生存上の必要上何か仕事をしなければならないのを、なろう事ならしないで用を足してそうして満足に生きていたいというわがままな了簡、と申しましょうかまたはそうそう身を粉にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするない・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・左れば此一節は女大学記者も余程勘弁して末段に筆を足し、婦人の心正しければ子なくとも去るに及ばずと記したるは、流石に此離縁法の無理なるを自覚したることならん。又妾に子あらば妻に子なくとも去るに及ばずとは、元来余計な文句にして、何の為めに記した・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 土の少なくなったのに手を泥まびれにして畑の土を足したり枯葉をむしったりした。 けれ共今はもうあき掛って居る。 あんまり騒がなくなった四五日前から前よりも一層ひどく髪が抜ける様になった。 女中に「抜毛を竹の根元に埋めると倍に・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・と言い足して笑った。 ここまで傍聴していた奥さんが、待ち兼ねたように、いろいろな話をし掛けると、秀麿は優しく受答をしていた。この時奥さんは、どうも秀麿の話は気乗がしていない、附合に物を言っているようだと云う第一印象を受けたのであった。・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・と云い足して、やっと顔を挙げた。 ツァウォツキイは頷いた。「何か娑婆で忘れて来た事があるなら、一日だけ暇を貰って帰って来る権利があるのだ。正当に死ねるはずの時が来て死んだものには、そんな権利は無い、もう用事が無いはずだからな。自殺し・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・二円五十銭あるのやが、何ぞの足しに、ならんかな。」「そんなにたんと預かっておいて、お前使うて了うたらどうするぞ。」と、お霜は笑って云った。「何アに使うて貰うたら結構や。持っててお呉れ、使い残りで悪いけど、それだけばち有りゃせんのや。・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫