・・・それに気が付いたのは、実はたった今よ。(劇なぜ黙っているの。さっきにからわたしにばかり饒舌らしていて、一言も言ってくれないのね。そんなにして坐っていて、わたしの顔を見ているその目付で、わたしの考えの糸を、丁度繭から絹糸を引き・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・なんだか女学生が、今死んでいるあたりから、冷たい息が通って来て、自分を凍えさせるようである。たった今まで、草原の中をよろめきながら飛んでいる野の蜜蜂が止まったら、羽を焦してしまっただろうと思われる程、赤く燃えていた女房の顳こめかみが、大理石・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・このへんを歩いている人たちの大部分は、西洋人でも日本人でも、男でも女でも、みんなたった今そこで生命の泉を飲んできたような明るい活気のある顔をしている中で、この老婦人だけがあたかも黄泉の国からの孤客のように見えるのであった。「どうかするんじゃ・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・しかし、どんな式服を着ていたかと聞かれると、たった今見て来たばかりの花嫁の心像は忽然として灰色の幽霊のようにぼやけたものになってしまう。「あなたの懐中時計の六時の所はどんな数字が書いてありますか」と聞いてみると、大概の人はちょっと小首を・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・を後に最後の瞬間において靴磨きのために最有利な証人として出現させるために序幕からその糸口をこしらえておかなければならないので、そのために娘の父を舞台の彼方で喘息のために苦悶させ、それに同情して靴磨きがたった今、ダンサーから貰った五円を医薬の・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ 巡査がどれもこれも福々しい人の好さそうな顔をしているのに反して、行列に加わっている人達の顔はみんなたった今人殺しでもして来たように凄い恐ろしい形相をしている。家畜の顔を見ていると、それがだんだんにいつかどこかで見た事のある人間の顏に・・・ 寺田寅彦 「夢」
・・・周囲のおおぜいの乗客はたった今墓場から出て来たような表情であるのに、この二人だけは実に生き生きとしてさも愉快そうに応答している。それが夫婦でもなくもちろん情人でもなく、きわめて平凡なるビジネスだけの関係らしく見えていて、そうしてそれがアメリ・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
・・・考えてはいたらしいが、その考の題目となっていたものは、よし、その時私がハッと気がついて「俺はたった今まで、一体何を考えていたんだ」と考えて見ても、もう思い出せなかった程の、つまりは飛行中のプロペラのような「速い思い」だったのだろう。だが、私・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ なぜって第一あの美しい蜂雀がたった今まできれいな銀の糸のような声で私と話をしていたのに俄かに硬く死んだようになってその眼もすっかり黒い硝子玉か何かになってしまいいつまでたっても四十雀ばかり見ているのです。おまけに一体それさえほんとうに・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・ どこにたった今歌っていたあのばけもの世界のクラレの花の咲いた野原があったでしょう。実にそれはネパールの国からチベットへ入る峠の頂だったのです。 ネネムのすぐ前に三本の竿が立ってその上に細長い紐のようなぼろ切れが沢山結び付けられ、風・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
出典:青空文庫