・・・と、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て、「香でも焚きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。 宣徳の香炉に紫檀の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫んだ青・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・波の如くに延びるよと見る間に、君とわれは腥さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術なし。たとい忌わしき絆なりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣りなり・・・ 夏目漱石 「薤露行」
余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎる事も多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・停年教授はと見ていると、彼は見掛によらぬ羞かみやと見えて、立つて何だか謝辞らしいことを述べたが、口籠ってよく分らなかった。宴が終って、誰もかれも打ち寛いだ頃、彼は前の謝辞があまりに簡単で済まなかったとでも思ったか、また立って彼の生涯の回顧ら・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・話そうとすると、何を言うんですと言ッて腹を立つッて、平田は弱りきッていたんだ」「だッて、私ゃ否ですもの」と、吉里は自分ながらおかしくなったらしくにっこりした。「それ御覧。それだもの。平田が談話すことが出来るものか。お前さんの性質も、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・世界に二つと無い物で、もう盗まれてから大ぶの年が立つ。それを盗んだのはおれだ。世界中捜しても知れない。おれが持っている。おれが盗んだのだ。なんでもふいと盗んだのだ。その時の事はもう精しくは知っていない。忘れてしまった。とにかくその青金剛石は・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・勝て清を尽し人の目に立つ程なるは悪し。只我身に応じたるを用べし。 身の装も衣裳の染色模様なども目に立たぬようにして唯我身に応じたるを用う可しと言う。質素を主として家の貧富に従うの意ならん。我輩の同意する所なれども、衣裳は婦人の最・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・の門閥を本位に定めて今日の同権を事変と視做し、自からまた下士に向て貸すところあるごとく思うものなれば、双方共に苟も封建の残夢を却掃して精神を高尚の地位に保つこと能わざる者より以下は、到底この貸借の念を絶つこと能わず。現に今日にても士族の仲間・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・余輩断じていわん、家に財あり、父母に才学あらば、十歳前後の子を今の学校に入るるべからず、またこれを他人に託すべからず、仮令いあるいは学校に入れ他人に託するも、全くこれを放ちて父母教育の関係を絶つべからずと。然りといえども実際において人の家に・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
この一編は、頃日、諭吉が綴るところの未定稿中より、教育の目的とも名づくべき一段を抜抄したるものなれば、前後の連絡を断つがために、意をつくすに足らず、よってこれを和解演述して、もって諸先生の高評を乞う。 教育の・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
出典:青空文庫