・・・実は雲霧の立ち昇る中に遥か下の谷川へ落ちた。谷川は勿論峯々の間に白い水煙をなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。 この赤児を孕んだ実は深い山の奥を離れた後、どういう人の手に拾われたか?――それはいまさら話すまでもあるまい。谷・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・誠や温泉の美くしさ、肌、骨までも透通り、そよそよと風が身に染みる、小宮山は広袖を借りて手足を伸ばし、打縦いでお茶菓子の越の雪、否、広袖だの、秋風だの、越の雪だのと、お愛想までが薄ら寒い谷川の音ももの寂しい。 湯上りで、眠気は差したり、道・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・そのとき、ふもとの谷川は、声をかぎりに叫びます。また、森には、風が起こって、ゴーゴーと鳴ります。ある山は、赤い火を噴いて、星に警戒します。 めくら星は、高い山の頂につきそうになって、この物音を聞きつけて、さも寒そうに身ぶるいしながら、青・・・ 小川未明 「めくら星」
・・・霧のかかった嶺を越えたり、ザーザーと流れる谷川をわたって、奥へ奥へと道のないところをわけていきますと、ぱらぱらと落ち葉が体に降りかかってきました。 猟師は、しばらく歩いては耳をすまし、また、しばらく歩いては耳をすましたのです。そして、あ・・・ 小川未明 「猟師と薬屋の話」
・・・『封建時代』の化石である、それでもいい足りない。谷川の水、流れとともに大海に注がないで、横にそれて別に一小沢を造り、ここに淀み、ここに腐り、炎天にはその泥沸き、寒天にはその水氷り、そしてついには涸れゆくをまつがごときである。しかしかれと対座・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・ 岩と岩の間を流れ落ちる谷川は到るところにあった。何度歩いても飽きない道を通って、赤坂裏へ出ると、青麦の畠が彼の眼に展けた。五度熟した麦の穂は復た白く光った。土塀、白壁の並び続いた荒町の裏を畠づたいに歩いて、やがて小諸の町はずれにあたる・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど登って行き着ける谷川温泉という、山の中の温泉場で過した。真実くるし過ぎた一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかか・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・宗教家は狼狽し、牛太郎は肯定し、捨てて置かれぬ一大社会問題にさえなりかけて来ましたので、当時の学界の権威たちが打ち寄り研究の結果、安心せよ、これは人間の骨ではない、しかしなんだかわからない、亜米利加の谷川に棲むサンショウウオという小動物に形・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ 滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が岩を噛みつつ流れ出ていた。絶壁は滝のしぶきでいつも濡れていた。羊歯類は此の絶壁のあちこちにも生えていて、滝のとどろきにしじゅうぶるぶるとそよいでいるのであった。 ・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・七、八年も昔の事であるが、私は上州の谷川温泉へ行き、その頃いろいろ苦しい事があって、その山上の温泉にもいたたまらず、山の麓の水上町へぼんやり歩いて降りて来て、橋を渡って町へはいると、町は七夕、赤、黄、緑の色紙が、竹の葉蔭にそよいでいて、ああ・・・ 太宰治 「作家の手帖」
出典:青空文庫