・・・ただ煙の上がる処に火があるというあまりあてにならない非科学的法則を頼みにして、少しばかりの材料をここに紹介する。 彼の人間に対する態度は博愛的人道的のものであるらしい。彼の犀利な眼にはおそらく人間のあらゆる偏見や痴愚が眼につき過ぎて困る・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊びに出られますのえ。今日が・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・帚葉山人はわざわざわたくしのために、わたくしが頼みもせぬのに、その心やすい名医何某博士を訪い、今日普通に行われている避姙の方法につき、その実行が間断なく二、三十年の久しきに渉っても、男子の健康に障害を来すような事がないものか否かを質問し、そ・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・学者と云うものは頼みもせぬ事を一々説明してくれる者である。「俺の家だと思えばどうか知らんが、てんで俺の家だと思いたくないんだからね。そりゃ名前だけは主人に違いないさ。だから門口にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家賃の主・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「僕は君の頼みはどんなことでも為よう。君の今一番して欲しいことは何だい」と私は訊いた。「私の頼みたいことわね。このままそうっとしといて呉れることだけよ。その他のことは何にも欲しくはないの」 悲劇の主人公は、私の予想を裏切った。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・お熊どん。私がまた後でよく言うからね、今晩はわがままを言わせておいておくれ」「どうかねえ。お頼み申しますよ」と、お熊は唐紙越しに、「花魁、こなたの御都合でねえ、よござんすか」「うるさいよッ」と、吉里も唐紙越しに睨んで、「人のことばッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・力なくなく次の旅店に至れば行燈に木賃と書きたる筆の跡さえ肉痩せて頼み少きに戸を開けば三、四畳の間はむくつけくあやしきおのこ五、六人に塞がれたり。はたと困じ果ててまたはじめの旅亭に還り戸を叩きながら知らぬ旅路に行きくれたる一人旅の悲しさこれよ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・お日さまの黄金色の光は、うしろの桃の木の影法師を三千寸も遠くまで投げ出し、空はまっ青にひかりましたが、誰もカイロ団に仕事を頼みに来ませんでした。そこでとのさまがえるはみんなを集めて云いました。「さっぱり誰も仕事を頼みに来んな。どうもこう・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・最後のクライマックスで、封建社会での王は最も頼みにしているルスタムの哀訴さえ自身の権勢を安全にするためには冷笑して拒んだ非人間らしさを描き出している。「渋谷家の始祖」は一九一九年のはじめにニューヨークで書かれた。二十一歳になった作者が、・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・ もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、安座して肌をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手に持って、「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽きは只今参りますぞ」と高声に言って、一声快よげに笑・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫