・・・ 彼は起って行って、頼むように云った。「別にお話を聴く必要も無いが……」と三百はプンとした顔して呟きながら、渋々に入って来た。四十二三の色白の小肥りの男で、紳士らしい服装している。併し斯うした商売の人間に特有――かのような、陰険な、・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・またそれを思い切って頼む段になると、吉田は今のこの自分の状態をどうしてわかりの悪い母親にわからしていいか、――それよりも自分がかろうじてそれを言うことができても、じっくりとした母親の平常の態度でそれを考えられたり、またその使いを頼まれた人間・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・それで吉さんの死ぬる時吉さんから二百円渡されてこれを三角餅の幸衛門に渡し幸衛門の手からお前に半分やってくれろ、半分は親兄弟の墓を修復する費用にしてその世話を頼むとの遺言、わたしは聞いて返事もろくろくできないでただ承知しましたと泣く泣く帰って・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 外から頼むように扉を叩く。ボーイが飛んで行った。鍵をはずした。 きゅうにドカドカと騒がしい音がして、二人の支那人が支那服を着た田川を両方から助け肩にすがらしてはいってきた。「大人、露西亜人にやられただ」 支那人の呉清輝は、・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・これはこの源三が優しい性質の一角と云おうか、いやこれがこの源三の本来の美しい性質で、いかなる人をも頼むまいというようなのはかえって源三が性質の中のある一角が、境遇のために激せられて他の部よりも比較的に発展したものであろうか。 お浪は今明・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 心身共に生気に充ちていたのであったから、毎日の朝を、まだ薄靄が村の田の面や畔の樹の梢を籠めているほどの夙さに起出て、そして九時か九時半かという頃までには、もう一家の生活を支えるための仕事は終えてしまって、それから後はおちついた寛やかな・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・「バリカンで、ジョキ/\やってしまうぜ。」 と云った。 それは分っていて……しかし云われてみると、矢張りギョッとした。「頼む! 少しは長くしておいてくれよ。」「こゝン中にいて、一体誰に見せるんだ。」と云って、クッ、ク・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・丁度自分の休暇に当ったので、事務の引続を当番の同僚に頼むつもりで書いて置いた気圧の表を念の為に読んで見た。天気、晴。気温、上昇。雲形、層、層積、巻層、巻積。よし。それで自分は小高い山の上にある長野の測候所を出た。善光寺から七八町向うの質屋の・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・町へ出て飲み屋へ行っても、昔の、宿場のときのままに、軒の低い、油障子を張った汚い家でお酒を頼むと、必ずそこの老主人が自らお燗をつけるのです。五十年間お客にお燗をつけてやったと自慢して居ました。酒がうまいもまずいも、すべてお燗のつけよう一つだ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・「しっかり頼むよ」口々にこうした激励の言葉を投げた。船と埠頭の間に渡した色テープの橋の両側で勇ましい軍歌が起った、人々の顔がみんな酔ったように赤く見えた。誰も彼も意志の強そうな顔ばかりである。世の中にこわいものもなければ心配なことも何もない・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
出典:青空文庫