・・・しかもまた、何だか頭巾に似た怪しげな狐色の帽子を被って、口髭に酒の滴を溜めて傍若無人に笑うのだから、それだけでも鴨は逃げてしまう。 こういうような仕末で、その日はただ十時間ばかり海の風に吹かれただけで、鴨は一羽も獲れずしまった。しかし、・・・ 芥川竜之介 「鴨猟」
・・・「これは今朝ほど五味溜めの所に、啼いていた犬でございますよ。――どうしてはいって参りましたかしら。」「お前はちっとも知らなかったの?」「はい、その癖ここにさっきから、御茶碗を洗って居りましたんですが――やっぱり人間眼の悪いと申す・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・池の周囲はおどろおどろと蘆の葉が大童で、真中所、河童の皿にぴちゃぴちゃと水を溜めて、其処を、干潟に取り残された小魚の泳ぐのが不断であるから、村の小児が袖を結って水悪戯に掻き廻す。……やどかりも、うようよいる。が、真夏などは暫時の汐の絶間にも・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・と襷がけのまま庖丁を、投げ出して、目白鳥を掌に取って据えた婦は目に一杯涙を溜めて、「どうしましょう。」そ、その時だ。試に手水鉢の水を柄杓で切って雫にして、露にして、目白鳥の嘴を開けて含まして、襟をあけて、膚につけて暖めて、しばらくすると、ひ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・そんな比羅絵を、のしかかって描いているのが、嬉しくて、面白くって、絵具を解き溜めた大摺鉢へ、鞠子の宿じゃないけれど、薯蕷汁となって溶込むように……学校の帰途にはその軒下へ、いつまでも立って見ていた事を思出した。時雨も霙も知っている。夏は学校・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 母は眼に涙を一ぱいに溜めてそういった。民子は身も世もあらぬさまでいきなりにお増の膝へすがりついて泣き泣き、「お増や、お母さんに申訣をしておくれ。私はそんなだいそれた了簡ではない。ゆんべあんなに泣いたは全く私が悪かったから、全く私が・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と云ってたけれど、目には涙を溜めてたそうである。 正月の十六日に朝早くお松が年頭に来た時に、自分の喜んだ様子ったら無かったそうである。それは後に母や姉から幾度も聞かせられた。「ねえやは、ようツたアなア、ようツたアなア。ねえやはいまま・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・われわれは金を溜めることができず、また事業をなすことができない。それからまたそれならばといって、あなたがたがみな文学者になったらば、たぶん活版屋では喜ぶかもしれませぬけれども、社会では喜ばない。文学者の世の中にふえるということは、ただ活版屋・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・だから、人々は辻は汚ない、けちけちと溜めている、もう十万円も溜めたろうと言っていた。あんなに若いのに金を溜めてどうするのだろう、ボロ家に住んでみすぼらしい服装をして、せっせと溜めてやがる、と軽蔑されていた。 ところが、その彼がある空襲の・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・俥夫三年の間にちびちび溜めて来たというものの、もとより小資本で、発行部数も僅か三百、初号から三号までは、無料で配り、四号目には、もう印刷屋への払いが出来なかった。のみならず、いかに門前の俥夫だったとはいえ、殆んど無学文盲の丹造の独力では、記・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫