・・・ 憲兵伍長は、ポケットから、大事そうに、偽札を取り出して示した。「さあ、どうだったか覚えません。――あるいは出したやつかもしれません。」「どっから受取った?」「…………」 栗島は、憲兵上等兵の監視つきで、事務室へ閉めこま・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・この人が竿を大事にしたことは、上手に段細にしたところを見てもハッキリ読めましたよ。どうも小指であんなに力を入れて放さないで、まあ竿と心中したようなもんだが、それだけ大事にしていたのだから、無理もねえでさあ。」などと言っている中に雨がきれ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・こんなことになったのは他人にだまされたんだと云い、息子をとられて、これからどう暮して行くんだ――それだけの事を文句も順序も同じに繰りかえして、進は腕のいゝ旋盤工で、これからどの位出世をするのか分らない大事な一人息子だからと云って、大きな蒲団・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・まするか、もちろん、それでわたしも決めました、決めたとは誰を、誰でもない山村の若旦那俊雄さまとあにそれこうでもなかろうなれど機を見て投ずる商い上手俊雄は番頭丈八が昔語り頸筋元からじわと真に受けお前には大事の色がと言えばござりますともござりま・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ ふた親は乞食のじいさんがおいていった鍵を、一こう大事にしないで、そこいらへ、ほうり出しておきました。それをウイリイが玩具にして、しまいにどこかへなくして来ました。 ウイリイはだんだんに、力の強い大きな子になって、父親の畠仕事を手伝・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ わかいおかあさんはこの大事な重荷のために息を切って、森の中は暑いものだから、汗の玉が顔から流れ下りました。「のどがかわきました、ママ」 とおさないむすめは泣きつくのでした。「いい子だからこらえられるだけこらえてごらんなさい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ベンガール地方の川としては小さいその村の川は、あまり立派でもない家の娘のように、狭い自分の領分を大事に守って居りました。そのいそがしい水の流れは、決して堤から溢れることがありません。けれども、川沿いの村に住んでいる家々の一人のように、自分の・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・やはり、之は、大事に筐底深く蔵して置いたほうが、よかったのでは無かったかと、私は、あのお洒落な粋紳士の兄のために、いまになって、そう思うのでありますが、当時は、私は兄の徹底したビュルレスクを尊敬し、それに東京の「十字街」というかなり有名らし・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・が、きいて頂きたいことがあるのだ、相談にのって頂きたい、力になって貰いたい、と手前勝手な台辞ばかりならべるのは、なんとも恥しい話です。あなたはカジョーに、ぼくの、経歴人物について、きいて下さったかも知れません。が、カジョーは多分、あいつは宣・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫