・・・ 彼の云うところによると、市に大字桑野として編入されることは、朝鮮と同様、市の多勢に実権を握られて居る以上已を得ないことでありましょう。然し、已を得ないと云うような言葉はつまり、弱者の云うことで――実際、此のサクバクたる農村が、郡山と同・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
・・・木村と往来しているある青年文士は、「どうも先生には現代人の大事な性質が闕けています、それは nervosit です」と云った。しかし木村は格別それを不幸にも感じていないらしい。 夕立のあとはまた小降になって余り涼しくもならない。 十・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・天祐和尚の逗留中に権兵衛のことを沙汰したらきっと助命を請われるに違いない。大寺の和尚の詞でみれば、等閑に聞きすてることはなるまい。和尚の立つのを待って処置しようと思ったのである。とうとう和尚は空しく熊本を立ってしまった。 天祐和尚が・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・川添家は同じ清武村の大字今泉、小字岡にある翁の夫人の里方で、そこに仲平の従妹が二人ある。妹娘の佐代は十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。それに器量よしという評判の子で、若者どもの間では「岡の小町」と呼んでいるそうである。どうも仲平と・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・ お霜は小鉢を台所へ置くと、さて何をして好いものかと迷ったが、別に大事な出来事が起ったのでもなく、ただ自分ひとりが勝手に狼狽えているのだと気が附いた。が、その狼狽えたどこかには、常より却って晴やかな気持が流れていたことには彼女とても気附・・・ 横光利一 「南北」
・・・そしてその夜は、明方まで、勿体ないほど大事にかけて看病して下すったんです。しかし僕はあなたが聞いて下さるからッて、好気になって、際限もなく話しをしていたら、退屈なさるでしょうから、いい加減にしますが、モ一ツ切り話しましょう。僕はこの時の事が・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・重大事を重大事として扱うのに不思議はないと思うから。しかし引きしめて控え目に、ただ核実のみを絞り出す事は、嘘を書かないための必須な条件であった。製作者自身は真実を書いているつもりでも、興奮に足をさらわれて手綱の取り方をゆるがせにすれば、書か・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫