・・・ ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、ある・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・花屋へ寄ってカーネーションと薔薇とを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり脱兎の如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・汗でぐしょぐしょになるほど握りしめていた掌中のナイフを、力一ぱいマットに投げ捨て、脱兎の如く部屋から飛び出た。 B 尾上てるは、含羞むような笑顔と、しなやかな四肢とを持った気性のつよい娘であった。浅草の或る町の・・・ 太宰治 「古典風」
・・・少しまえに、私はすぐ近くの四十九聯隊の練兵場へ散歩に出て、二、三の犬が私のあとについてきて、いまにも踵をがぶりとやられはせぬかと生きた気もせず、けれども毎度のことであり、観念して無心平生を装い、ぱっと脱兎のごとく逃げたい衝動を懸命に抑え、抑・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・ 碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、脱兎の勢で飛び出した。「おい。ここいらか」「そこだ。そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ」「こうか。――なるほど、こりゃ大変浅い。これなら、僕が蝙蝠傘を上から出したら、それへ、取っ捕ら・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・それから、まるで脱兎のような勢で結論にはいりました。「私はシカゴ畜産組合の顧問でも何でもない。ただ神の正義を伝えんが為に茲に来た。諸君、諸君は神を信ずる。何が故に神に従わないか。何故に神の恩恵を拒むのであるか。速にこれを悔悟して従順なる・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
出典:青空文庫