・・・あれを建てた緒方某は千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩の時、千住で小休みをする度毎に、緒方の家が御用を承わることに極まっていた。花房の父があの家をがらくたと一しょに買い取った時、天井裏から長さ三尺ばかりの細長い箱が出た。蓋に御鋪物と書いてある。御・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・その紐を引くと、頭の上で蝋燭を立てたように羽が立つ。それを見ては誰だって笑わずにはいられない。この男にこの場所で小さい女中は心安くなって、半日一しょに暮らした。さて午後十一時になっても主人の家には帰らないで、とうとう町なかの公園で夜を明かし・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・今は錐も立てられぬほどの賑わしさ、昔は関も立てられぬほどの広さ。今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町の漁師町でわずかに活計を立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極の素寒貧であッた。実に今は住む百万の蒼・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・河は激しい音を立てて濁り出す。枯木は山の方から流れて来る。「雨、こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 灸は柱に頬をつけて歌を唄い出した。蓑を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のよう・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・そしたら明日どこぞへ小屋建てよう、清溝の柿の木の横へでも、藁でちょっと建てりゃわけやないわして、半日で建つがな。」「それでもお前、十五六円やそこらかかろがな?」「その位はそりゃかかるわさ。そやけど瓦のかけらでもあろまいし、藁ばっかし・・・ 横光利一 「南北」
・・・しになって、今じゃ塀や築地の破れを蔦桂が漸く着物を着せてる位ですけれど、お城に続いてる古い森が大層広いのを幸いその後鹿や兎を沢山にお放しになって遊猟場に変えておしまいなさり、また最寄の小高見へ別荘をお建てになって、毎年秋の木の葉を鹿ががさつ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・小林氏の感受した美が氏の描いた情趣と同一物であるならば、自分の言うごとき区別は立てられないかもしれない。が、事実問題として、ああいう美しさが六月の太陽に照らされたほの暑い農村の美しさのすべてであるとは言えないであろう。小林氏にしてもあれ以外・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
・・・というのは、おだてにのって、自分で善悪の判断をすることができなくなるのである。したがってますますばかになる。 もっとも、家来というものは、そういう悪意はなくとも、主君のすることをほめるものである。それに対してはしかるべき心得がなくてはな・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・濠に面して新しい高層建築が建てそろっている。ここがあの荒れ果てた三菱が原であった時分から思うと、全く隔世の感がある。しかし自分を驚かせたのはこの建て並んだ西洋建築ではない。これらはまことに平凡をきわめたものである。そうではなくしてこれらの建・・・ 和辻哲郎 「城」
出典:青空文庫