・・・もし陛下の御身近く忠義こうこつの臣があって、陛下の赤子に差異はない、なにとぞ二十四名の者ども、罪の浅きも深きも一同に御宥し下されて、反省改悟の機会を御与え下されかしと、身を以て懇願する者があったならば、陛下も御頷きになって、我らは十二名の革・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ トラックを急がせて、会社近くの屈り角へ来たとき、不意に横合から、五六人の男が、運転手台へ飛び掛った。スワと思って、身がまえしたとき、運転手台の後の窓を破って、ジリ、ジリ、と詰め寄せて来た時の、あの川村の眼……。「あの眼は、親だろう・・・ 徳永直 「眼」
・・・遠くに見えた放水路の関門は忽ち眼界を去り、農家の低い屋根と高からぬ樹林の途絶えようとしてはまた続いて行くさまは、やがて海辺に近く一条の道路の走っていることを知らせている。畦道をその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、折々飛立つ白鷺・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・狭い店先には瞽女の膝元近くまで聞手が詰って居る。土間にも立って居る。そうして表の障子を外した閾を越えて往来まで一杯に成って居る。太十も其儘立って覗いて居た。斜に射すランプの光で唄って居る二女の顔が冴えて見える。一段畢ると家の内はがやがやと騒・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・洋琴の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩やむ能わざらしめたる極ついに彼をして天に最も近く人にもっとも遠ざかれる住居をこの四階の天井裏に求めしめたのである。 彼のエイトキン夫人に与えたる書・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・一つは物の大小形状及びその色合などについて知覚が明暸になりますのと、この明暸になったものを、精細に写し出す事が巧者にかつ迅速にできる事だと信じます。二はこれを描き出すに当って使用する線及び点が、描き出される物の形状や色合とは比較的独立して、・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・来た頃は留学中の或教授の留守居というのであったが、遂にここに留まることとなり、烏兎怱々いつしか二十年近くの年月を過すに至った。近来はしばしば、家庭の不幸に遇い、心身共に銷磨して、成すべきことも成さず、尽すべきことも尽さなかった。今日、諸君の・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・その各の人の装幀の価値に応じて、より浅く、またより深く、より自己に近く、また自己に遠く。 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・なぜなら学者の説によれば、方角を知覚する特殊の機能は、耳の中にある三半規管の作用だと言うことだから。 余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度か・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・と、一人の男が一体どこから飛び出したのか、危く打つかりそうになるほどの近くに突っ立って、押し殺すような小さな声で呻くように云った。「ピー、カンカンか」 私はポカンとそこへつっ立っていた。私は余り出し抜けなので、その男の顔を穴のあく程・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫