・・・平太郎は知行二百石の側役で、算筆に達した老人であったが、平生の行状から推して見ても、恨を受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐天した事が知れると共に、始めてその敵が明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていた・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
文政四年の師走である。加賀の宰相治修の家来に知行六百石の馬廻り役を勤める細井三右衛門と云う侍は相役衣笠太兵衛の次男数馬と云う若者を打ち果した。それも果し合いをしたのではない。ある夜の戌の上刻頃、数馬は南の馬場の下に、謡の会・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・このあたりの地形を見たときから私は、古墳のあったところか、またどこかに発見されない古墳のあるところという気がしたのです。太古民族が、このあたりにも住んでいたのですね。それはそうと、なにかこのあたりで、おもしろい土器の破片か、勾玉のようなもの・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・櫟林や麦畠や街道や菜園や、地形の変化に富んだその郊外は静かで清すがしかった。乳牛のいる牧場は信子の好きなものだった。どっしりした百姓家を彼は愛した。「あれに出喰わしたら、こう手綱を持っているだろう、それのこちら側へ避けないと危いよ」・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・此地はこのあたりにての泊舟の地なれど、地形妙ならず、市街も物淋しく見ゆ。また夜泊す。 二十七日の夜ともいうべき二十八日の夙くに出港せしが、浪風あらく雲乱れて、後には雨さえ加わりたり。福山すなわち松前と往時は云いし城下に暫時碇泊しけるに、・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 植通公の若い時は天下乱麻の如くであった。知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、禁庭御所得はどの位であったと思う。或記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになっ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・城の大手門を見込んでちょっとした坂を下って行くのであるが、こうした地形に拠った城は存外珍しいのではないかと思う。 藤村庵というのがあって、そこには藤村氏の筆跡が壁に掛け並べてあったり、藤村文献目録なども備えてある。現に生きて活動している・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・変化の少ない周囲の地形の眺めも、到るところの黒い松林の眺めもいずれも沈鬱である。哲学の生れる国の自然にふさわしいと云った人の言葉を想い出させる。 船が着いてから小さな丘に上って行った。丘の頂には旗亭がある。その前の平地に沢山のテエブルと・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・ 池の周囲の磁力測量、もっとも伏角だけではあるが、数年来つづけてやって来て、材料はかなりたまっている。地形によって説明されるような偏差がかなり著しく出ていておもしろいから、いつかまとめておきたいと思いながらそのままになっている。池の断面・・・ 寺田寅彦 「池」
・・・ 山の南側は、太古の大地変の痕跡を示して、山骨を露出し、急峻な姿をしているのであるが、大垣から見れば、それほど突兀たる姿をしていないだろうという事は、たとえば陸地測量部の五万分一の地形図を見ても、判断する事ができる。大垣停車場から、伊吹・・・ 寺田寅彦 「伊吹山の句について」
出典:青空文庫