・・・往来には何事もなく、退屈の道路が白っちゃけてた。猫のようなものの姿は、どこにも影さえ見えなかった。そしてすっかり情態が一変していた。町には平凡な商家が並び、どこの田舎にも見かけるような、疲れた埃っぽい人たちが、白昼の乾いた街を歩いていた。あ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・「おめえたちゃ、皆、ここに一緒に棲んでいるのかい」 私は半分扉の外に出ながら振りかえって訊いた。「そうよ。ここがおいらの根城なんだからな」男が、ブッキラ棒に答えた。 私はそのまま階段を降って街へ出た。門の所で今出て来た所を振・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁、困りますよ」と、吉里の後から追い縋ッたのはお熊という新造。 吉里は二十二三にもなろうか、今が稼ぎ盛りの年輩である。美人質ではないが男好きのする丸顔で、し・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・盗むにはいろいろ道具もいるし、それに折も見計わなくちゃならない。修行しなくちゃ出来ない商売だ。そればかりじゃないや。第一おれには不気味で出来ねえ。実は小さい時おれに盗みを教え込もうとした奴があったのだ。だが、どうも不気味だよ。そうは云うもの・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・文章は、上巻の方は、三馬、風来、全交、饗庭さんなぞがごちゃ混ぜになってる。中巻は最早日本人を離れて、西洋文を取って来た。つまり西洋文を輸入しようという考えからで、先ずドストエフスキー、ガンチャロフ等を学び、主にドストエフスキーの書方に傾いた・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・「今降り出されちゃア困まってしまう、どうしたらよかろう」と附添の一人が気遣わしげにいうと、穏坊は相変らず澄ました調子で「すぐ焼けてしまいまする」などといっておる。火に照らされている穏坊の顔は鬼かとも思うように赤く輝いでいる。こんな物凄い光景・・・ 正岡子規 「死後」
・・・おっかさんをわるく思っちゃすまないよ。」 そうです。このいちょうの木はおかあさんでした。 ことしは千人の黄金色の子どもが生まれたのです。 そしてきょうこそ子どもらがみんないっしょに旅にたつのです。おかあさんはそれをあんまり悲しん・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・場合によっては金もやったが、沢や婆は、ちゃんと金の貰えるようなことは何一つ出来なかった。村では、子供でも養蚕の手伝いをした。彼女は、「私しゃ、気味がわるうござんしてね、そんな虫、大嫌さ」と、東京弁で断った。縫物も出来なかった。五月に・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・診察しなくちゃ、なんとも云われませんね。ふん。そうですか。病気はないから、医者には見せないと云うのでしたっけ。そうかも知れません。わたくしなんぞは学生を大勢見ているのですが、少し物の出来る奴が卒業する前後には、皆あんな顔をしていますよ。毎年・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・「坊ちゃんはいい子ですね。あのね、小母さんはまだこれから寝なくちゃならないのよ。あちらへいってらっしゃいな。いい子ね。」 灸は婦人を見上げたまま少し顔を赧くして背を欄干につけた。「あの子、まだ起きないの?」「もう直ぐ起きます・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫